いつまでも人は自己中心である

誕生日を迎え、今日自分が何歳になったのかをWEBサービスで確認したところ35歳とのこと。
四捨五入すると40歳、あるいはアラサーからアラフォーにシフトしたのだ。
子供の頃は35歳ともなればとても立派なオトナでどんなことでも一人で出来る、言ってしまえば人間の完成形のような状態だと思っていた。
されど実際は親に「誕生日くらい顔出しに来な」と言われのこのこ実家に帰省して、近所のスシローで1人あたり1400円くらいの食事を家族で楽しんで満足する程度の人生観を持ち合わせたおっさんである。
オトナなんて案外そんなものだ。
いや、父が35歳の時は5歳になる俺や母や兄を養って日夜働いて誰よりも成果を出してエリート出世していたようだ。
オトナというより俺がそんなものなんだろう。

さて、過去を振り返る時や会話で過去を持ち出す際の便利ワードとして「10年前は〜」という表現がある。
10年前に流行っていたアニメは〜、価値観は〜、スマホは〜、などととにかく便利だ。
それを用いて自分の10年前を掘り起こすと絶賛ニート中だったので何も発掘出来ない。
掘るだけ無駄である、無職なんだし。
そこでいっそ20年前を掘り起こしてみようと記憶と辿ってみたところ、中3だか高1の15歳の自分が浮かぶ。

思えば幼い頃から元々妄想癖があり、よく考え事をするタイプだった。
それが中2の頃に出会ったライトノベルたちによって、数年の熟成により時に情熱的に、時にシニカルに、何かを考えそれを周囲に語るという「オリジナルエセ哲学」的な「こじらせ」を身につけていた。
日々脳内で繰り広げられるエセ哲学の内の一つ、15歳の頃に思い至ったものが本日のタイトルにある「人は自己中心である」という考え方だ。

当時は自己中という言葉をよく耳にしていた。
TV番組での血液型性格診断などがとても活発な時期で、事あるごとにB型を悪者にする演出こそが正しいという社会風潮があったのだ。
2023年現在では恐らく一発でアウトになる内容だが当時はB型を叩く事は枢軸国を叩くのと同じようなもので、何をやっても許される時代だったのだ。
そのB型の特徴としてよく起用された表現が「B型は自己中」というものだった。
B型は全員自己中で他者のことを思いやれない愚者であるという何かの宗教の経典にでも書いてあるのではと疑うような事を大真面目に放送していた。
そしてB型の俺は当たり前のように周りからそう言われるようになったし、オトナになった今でも会社などでは経典片手に笑いものにされている。

ここで現代のトレンド的な反論を唱える際は、「統計的なデータはあるのか」「血液の型による思想、脳への影響度はどの程度か、その現象の根拠は」「悪を設定することで失われた自尊心の回復を促し意思統一を図るなど別の目的はないだろうか」「確証性バイアスを用いた思い込みではないだろうか」などごもっともで非常にシンプルな論理展開を武装していくのが通常ではある。
俺が正式な場で討論するとしたら恐らくそうする。

だが当時こじらせ真っ盛りの15歳の俺は、シンプルな論理展開による反論よりも、自己中という言葉をあまりにも限定的に使用する論調への批判を持つようになった。


あー、なんかクッソ眠くなってきてめんどくさくなったからかなり端折るわ。今日3時に起きてそのままだったからダメだこれ。
要は人間は思考をする際に脳を使用するわけだが、脳は自分の身体にしか存在せず、他者の脳を使用することも仲介することも出来ない。
自分が他者に成り代われない以上は自分と他者は別の存在であり、他者="自分以外の存在"の脳で物事を見聞きすることも思考することも出来ない。
であるならば、人間がする思考は自分の人生によって自分で築き上げた人格や魂のようなもの(≒自己)で考えが及ぶ範囲でしか物事を把握したりすることしかできず、自己とは異なる他者の視点で見る事は不可能である。
地球というキャンバスに60億だか70億の点をポツポツと打って、ちょうど真ん中の点を自分と捉えたとする。
この時に「自分の考えがまともに"及ぶ"と感じる範囲で自由に円を描いて囲いなさい」と問われたとして、どのような円をいくつ、どこに描くだろうか。
キャンバス全体を覆うような円を描く人も居れば、真ん中の点一つを小さく囲う人も居るだろう、10個くらいを囲う人も居るはずだ。
人によって様々なのだが、共通していえることは前述の「真ん中の点を自分と捉えたとする」の一文を用いてとりあえず真ん中の点を中心に各々の円を描くことだ。
ここで奇抜な発想でもって別のところに、あるいは散りばめられた円を描く人は多数いるだろうが、現実問題として人間がそれを可能とするだろうかという話である。
結局のところ、真ん中の点という自分を中心に自分の思慮配慮の及ぶ範囲の円を描く際にその円が大きいのか小さいのかの違いであり、他者を中心に円を描く脳など存在しないということ。
即ち自己を中心に考えるしかないということ。

他人を慈しみ思いやる人を自己中とは対極の存在と扱う論調に対して、「それって思慮配慮の範囲が広い人ってだけで、その円の中心には自己があるんだろ」と思い至る。
「結局のところ範囲が狭くても広くても自己を中心として円を描くのが思考であり、それを超越することは不可能なのだから、B型が自己中であるという論調そのものが破綻しているのではないか?」と考え、それから気付いたらもう20年が経過した。
20年経った今その考えは否定できたのかと改めて35年の人生をあらゆる積み重ねをザッと見直したが、やはり変わらない。
いつまでも人は自己中心である。
本来のTV番組が用いた自己中の意味でも、上記の意味でも、人はどこまでいっても自己中心である。

それでも人と関わる事を選ぶ者も居れば、恐れる者も居る、面倒になって拒む者も居る。
どれを選択しようとも、自分が今何を選択しているのかを把握していれば多少は気が楽にもなるだろう。
どうせ自分は誰かの脳の視点を持つことはできないのだ。
他人の積み重ねてきた人格故の苦しみなど、どうしても背負う必要があろうか。
自己は自己、他者は他者、元より別々の存在であるのだから、自分を押し包めて無理をする必要はない。
誰に否定されようとも笑われようとも失敗しようとも、これからも自分の選択を肯定出来るようにRomanを描くのだ。


という実質ただの自分用メモでした。

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