きっかけをくれた人たち
昔々。
私は一応、人並みに勉強はできたが、努力しなかった。
何故なら、頑張らなくてもたいして成績は悪くなかったからだ。
中学高校と頑張らないまま過ごし、そして大学進学で当然失敗した。
それでも、人生結婚がゴールだと思っていた。まじでだ。
それが、こんな世の中になるとは。
そして自分が、こんなふうに変わるとはねぇ。
人生、これだから面白い😁
何悠長なこと言ってるんだ。楽はさせないぞ。
自分で考えることを辞めてはいけない。
天は、そう言ってたんだ、ずっと。
親の固定観念をそのまま信じていた自分にカウンターパンチをくらったのは、一体何十年生きてからだろう??
本当に馬鹿のままだった。
人は、疑いを持っても自分の信じたいものを信ずる。
つまりはそれが生き方になる。
私は運がよかった?ので、途中まではそんなおバカな自分に気付かぬまま、コケずにやってゆけた。
だが時折、そんなハリボテで出来合いの幸福にチクリと針を刺すものがいた。
T大学の研究所の事務をやっていた時だ。
そこで自分は、研究室の教授や学生さんが出す郵便物を計量・郵送料を調べて局へ送ったり、局から届いた郵便物を各研究室のメールボックスに仕分けしたり、電話して取りに来てもらったり。
ま、いろいろ雑務をこなしていた。
ある時、某研究室のA助教授が郵便物を受け取りに、庶務へやってきた。
彼女は私が渡した郵便物を見て、そのあと私の顔を何故かじっと見て言った。
「お姉さん。
ネーデルランドって何処だかわかる?」
え??
私はびっくりして、郵便物の差し出し元の国を見た。
ねーでるらんど??
聞いたことはあるけど、全然わからない。
「わかりません」
私は正直に言った。
「オランダよ」
A助教授は、やはり知らなかったか。という表情で私に答えた。
私が、
自分の無知に恥を感じた最初の時、だったと思う。
私はA助教授から教えてもらったその知識を、以来決して忘れることはなかった。
次は、主人と結婚してしばらく経ってからのことだ。
当時主人が仲良くしていたのは中学生時代からの友人で、一緒に生徒会をやっていた仲間だった。
傍目に見ても非常に優秀な人たちばかりだった。
ある時、何かで彼等と飲みに行った時のことだ。
友人のひとりがいった。
「ねえ。
吾 泣き濡れて 蟹とたわむる って句があるでしょ。
あれ、誰の句だっけ?
なんだか頭から離れないんだ」
彼女はOさんと言って高校の先生をしていた。
達筆で、書道の腕前は当時師範格だった。
それを聞いた途端、飲んでいたメンバー全員がしん、として頭を抱えた。
やがて、
「…啄木じゃない?」
と 誰かが言い、場はもとの和やかな雰囲気に戻った。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
石川啄木
今思うとこの句のことだったのだが、
当時の私は彼等のこの話題そのものに驚いた。
何話してんの?この人たち(゚o゚;;
そんな、学校で習うようなこと、なんで覚えてんの?
なんでそんなの話題に出て、真剣に思い出そうとしてるのさ??( ̄◇ ̄;)
…つまり、
当時の私のレベルは、そんなの理解できないほど低かった。
勉強ができること、と
それを体得して、本当に自分のものにできてるかどうか、はまったく別物なのである。
私にとって高校までの勉強は、まったくもって「机上の勉強」にしかすぎなかった。
受験のためだけの、覚えなきゃならないもの、としてしか認識していなかった。
だが、多分彼等は違う。
おそらく、啄木の句をちゃんと読み解き、考察していたのではないか。
主人の生徒会仲間の友人のひとりに、作家になった人がいる。
彼は今や有名人だが、当時も才気に溢れ、絵画にも詳しかった。
ある時、彼が私に言った。
「なあ、ねーちゃん。
この絵、シャガールの絵に似てないか?」
え???(゚o゚;;
当時、シャガールも何もまったく絵に興味のなかった私は、質問されたことに面くらった。
まったく相手にならない私の様子を見て、彼は明らかにがっかりして言った
「なんだ、しらねーのか…」
興味があろうとなかろうと、何か展覧会に誘われれば積極的に行くようになったのはそれからである。
私は普通に話していると、あまり気の合う友達ができず。ネットで友人を作ることがほとんどだった。
そして何故か、どんな繋がりからでも、優秀な人と知り合うことが多く、彼等は大抵博識で、私は彼等から実に多くのことを学んだ。
今はまったくわからなくても、
勉強してゆけば少しずつわかってくる。
面白さも。きっとわかるようになる。
いつか、どんな話を振られても、誰とでも喋れるようになりたい。
引き出しは多いほど、いい。
白紙のままの自分に、自分だけがモノにした知識を書き込んでゆく。
私に無知を知らしめた彼等に、感謝である(^ ^)
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