ちいさいころの話。

元気で明るくて学級委員とか率先してやってた

小学校くらいまでのワタシ。

ともだちも多かったし何より毎日が楽しかった。

言ってしまえば

「たのしい」のみで出来てた毎日だった。

今でもその頃の幼馴染たちとは仲が良くて

お互いが子連れになって一緒に遊んだり、呑んだり、ね。

ただ、ちょっと変わっていたのかもなぁと

今なら思う。




<きもち読む面倒な子w>

「今、この子ちょっと悲しい気持ちになってるから、この子が喜ぶお絵描きに誘おう」

「この子、また怒って喧嘩になるな。面倒臭いから離れておこ〜っと。」

「今日の先生たち、なんかめっちゃ楽しそう」

(→その日はポンキッキーズの収録で岩城滉一が幼稚園に来る日だったw)


「おかあさん、あっちゃんは私が頼もうとしていたことを先回りしてお手伝いしてくれるんで、本当に助かります」

(→家庭訪問時に担任の先生に言われたことば)


なんとなくではあるけど相手の気持ちが読めていた。

「今日はパパとママ、喧嘩してるからいいこにしておこう。飛び火いやだしw」

と、そそくさとオモチャを片付け。

「あんたはワタシらがどんなに隠してても、静かに冷戦してても、すぐに不穏な空気読んで。いい子になるのが何か嫌で面倒臭かった」

と、大人になって母に言われた。

そうか読まれる側は読まれる側で

思うことがあるのね笑

心が読めるといっても

具体的な「文字」で見えるのではなく

「温度」みたいななにか?が

ふわぁんと伝わってくるのは、今も変わってない。

(この特性が数秘術の9の特徴だと知った時、超納得した)

多分この感じは多かれ少なかれ

誰にでもある感覚ではあると思う。



<バードウォッチャーな自分>

習い事に向かう時の信号待ちとか

鉄棒で遊んでる時とか

電線とか上のほうから

「自分を見てる自分」

が、時々いたのだ。

空を飛べる、までは出来なかったけど

自分の脳天を自分が眺めながら

「あ、今、信号待ってる間に二枚爪剥がそうとしてるな」

とか。

「逆上がりした時の顔ってすごい顔なんだな」

とか。

いまも時々現れる。

でも頻度は減ってしまった。

つまらん。



<不可能なし>

スイミング習い出してから水中での動きが大好きで

「本当にできると思ったら教室の壁蹴って蹴伸びできるんだろうな」

ってなんの疑問も感じなかったから
レッツトライ。


冷たい床に寝転がって

「あーまだ思う気持ちが足りないのか。また今度やってみよう」

って天井見ながら考えてた。

みんなもそんな事考えてるでしょ?

って思っていたから

いちいち確認もしなかった。



<目の前ってなんだろう>

ある夏の日の夜

雷がとんでもなくうるさくて中々眠れず。


次の日遊びにいった友達のお母さんに

「昨日はうるさくて眠れなかった」

と話したら

「あら、ヒカリはガーガー寝てたわよ」

って言われて衝撃。




「もしかして、目の前の事ってのはみんな同じじゃないんじゃないか?」

「ヒトによって違うもの見えてたり感じてるんじゃないのか?」

「今度鏡を持って友達と同じに見えてるかごっこしよう!」


なんだかすごいこと見つけたぞって

ワクワクした同じ熱量くらい

深く追いかけないのも納得な

当時小学3年生のワタシ。




「ほか」を知らないから

「比べる」もしないし必要もない。

感じたものが全てだったし

目に映えたものが事実だったし

それらに「意味」なんかなくても

なんとも思わなかった。


「毎日たのしいです」で

そこに「意味」なんて要らなかった。

生きる意味なんて

「だって楽しいんだもん。以上」

みたいな、ね。


厨二病になる中学生までは。

その話はまた後日。

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