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内藤頼博と水谷八重子、あるいは昭和の裁判官と文壇芸界との関係について

6/27放送の「虎に翼」第64話、家庭局長多岐川幸四郎がブチ上げた「愛のコンサート」の出演歌手として、前作「ブギウギ」から菊地凛子さん演ずる茨田りつ子がサプライズ登場し、朝ドラファン歓喜の展開となりました。
茨田りつ子は殿様判事ライアンこと久藤頼安と昔から交友関係があったということで、コンサート出演とともに家庭裁判所のポスターのモデルも快く引き受けてくれました。

劇中で登場したこのポスターのデザインは、史実の昭和24年4月の家庭裁判所創設記念週間のために作られたものを忠実に再現しています。

家庭裁判所70周年を迎えて ~家庭裁判所の誕生,あゆみ,そして展望~ より

キャッチコピー「まァこれで安心!あなたもわたしも…」もそのままです。

実は、もともとこのコピーには「家庭に光を 少年に愛を」が使われるはずでした。翌6/28放送の第65話で、家庭局一同が酒盛りで打ち上げをしているシーン、求められてモン・パパを歌う前に、寅子が発し、みなで声を合わせたあのフレーズです。
劇中では、前触れなくヌルッと使われたこの言葉ですが、この標語こそ、家庭裁判所創設時のスローガンとして当時高らかに掲げられたものでした。

「虎に翼」家庭裁判所編の事実上の原作と言っていい、清永聡NHK解説委員の「家庭裁判所物語」(日本評論社,2018年)のあとがきでも触れられているとおり、多岐川のモデルである宇田川潤四郎は、清水寺の大西良慶貫主にこの標語を筆で書いてもらって掛け軸にして、これを家庭局長室に飾っていたほどです。
(なお、京都家裁前庭のブロンズの母子像の台座に刻まれている「家庭に光を 少年に愛を」も大西師の筆によるものとのことで、もしかしたら掛け軸と同じ書が使われているかもしれません)

ということで、当然こちらのポスターにも「家庭に光を 少年に愛を」を添える予定であったところ、何故かGHQ筋からクレームがつき、図柄に合った文句に変えるよう勧告されたため、
この「まァこれで安心!あなたもわたしも…」なる、今にして思うとやや妙な、いやこっちの方が全然そぐわないじゃないかと思ってしまうフレーズを添えることで収まったのでした。
(参考文献:家庭事件研究会『ケース研究』221号(1989年11月)161頁、佐山榮「家庭裁判所のモットーについて回想」)

さて、茨田りつ子が愛のコンサートに出演したというのは流石にフィクションでして、実際のポスターのモデルも、淡谷のり子先生ではありません。
モデルとなったのは、新派の名女優、初代・水谷八重子です。
以前は「水谷良重」を名乗られていた、二代目・水谷八重子さんの実のお母様にあたる方ですね。

前出「家庭裁判所物語」によれば、初代・水谷八重子にポスターのモデルを依頼したのは、ライアンのモデルである内藤頼博最高裁秘書課長で、芸能界にも顔の広い内藤さんが知り合いの新劇の関係者に頼んで、カメラマンとともに劇場の楽屋に直談判に行って、楽屋にたまたま居合わせた子役の少年との構図を即興で整えて撮影し、これを絵画にしたのがこのポスターだったとのことで、「殿様判事の驚くべき交友関係」を発揮したというのは史実そのままだったようです。

この部分を読んだとき、うーん、戦前の華族というのはすごいもんだなあ…と素直に感心していたわけなのですが、このときの経緯について、内藤頼博が直接述べている雑誌のインタビューをたまたま読んでみましたらば、そんなちょちょいと関係者から頼んでもらったみたいな話じゃ全然なかったので、ご紹介します。
「法の支配」1994年12月号の「―インタビュー―内藤頼博先生に聞く」
インタビュー日は1994(平成6)年8月18日、聞き手は元東京高裁部総括の髙野耕一さんです。

ポスターの件について述べられているのは一番最後の部分でした。

○高野 では、話はがらりと変わりますが、例の梅幸さんとか花柳章太郎、水谷八重子などについてのエピソードがありましたらばお気楽にお聞かせいただければと思います。特に水谷八重子については何か家裁のポスターに使ったというお話ですね。
○内藤 家裁ができたとき広報用のポスターに使ったのです。
○高野 その経緯をちょっとお話してください。
○内藤 最高裁判所ができて1周年のときですけども、東劇で水谷八重子のポーシャで『ベニスの商人』の芝居をやるというので、裁判所で皆で見ようということになったのです。そしてその機会に三淵さん(引用者注:三淵忠彦初代最高裁長官)が皇太子様をお呼びしようということで、東宮大夫の穂積重遠さんとのお話で、今の天皇陛下と常陸宮様のお二方、まだ学習院初等科にいらっしゃったときですが、お出まし頂いて、三淵さんも大変喜ばれました。そのとき、猿之助のシャイロックと八重子のポーシャが幕間に舞台から御挨拶を申し上げることになって、その御挨拶ののことばを僕に書いてくれという、それで僕がそれを書いたわけなのですよ。そしたらそれが大変名文(?)だということで、猿之助も八重子もその通りやってくれたわけです。そういう因縁があって、それで八重子に頼んでポスターになってもらったんです。

『法の支配』(12)(96),日本法律家協会,1994-12.
国立国会図書館デジタルコレクション

おっと、穂積先生がここで初代東宮大夫として絡んできました。
なるほどなるほど、このポスターの前に内藤さんの方からも水谷八重子さんに貸しがあったわけですね。
しかし、皇太子ご兄弟へのご挨拶を最高裁秘書課長に起案してくれとは随分気安い関係だなと思って読み進めると…

○高野 花柳章太郎は、例の「螢」について。
○内藤 さきにも触れたように、これは三宅さんの随筆から材料をとって久保田万太郎氏が戯曲化したものです。三宅さんという人は新派とは非常に親しかったからね。八重子なんかいろいろ三宅さんに教えて頂きましたとよく言っていましたよ。あの辺が三宅さんのすばらしいところで、いろいろなことをよく知ってて、図書館などで調べてくるのですよ、昔のことを。そうしては役者に教える。そんなものだから役者たちが教わっているのですね。大審院も暇だったのでしょう、よき時代ですね。

同上

花柳章太郎は初代・水谷八重子同様に戦前から新派の中心として活躍した女形役者です。
ここで司法界と新派とは元々の関係性があったことがわかりました。
そしてそれをつなぐキーマンとして、大審院判事三宅正太郎が登場して参りました。

○内藤 三宅さんという人は後の田中耕太郎さんのように、まあ超人でね。並の人の人生の三倍ぐらいやっているのではないですか。こと裁判の面でも、大審院の部長時代には不敬罪に問われた尾崎咢堂翁に無罪の判決を言い渡したりしました。また「裁判の書」という名著を残されましたが、この本は裁判の精神について具体的に書かれたもので、僕らも大いに愛読したものです。三宅さんは随筆も沢山あって、その随筆の中から里見弴氏の「たのむ」や、久保田万太郎氏の「蛍」などの戯曲が生まれ、新派の舞台に上映されたものです。
(中略)
それから新派が『母なれば』という芝居で、水谷八重子が娘で花柳章太郎が母親という、そういう芝居のなかで法廷の場をやるというので、岸君(引用者注:岸盛一最高裁初代刑事局長のち最高裁判事)と一緒に法廷の場の舞台稽古を見て、新刑訴のやり方を教えたこともあります。それは東京劇場から頼まれたと思いましたね。

同上

名随筆で知られた三宅正太郎には「裁判の書」以外にもいろいろ作品があるという知識はありましたが、その随筆から戯曲が作られていた、さらには判事たちが新派の舞台の法律監修的なことをやっていたということを初めて知って非常に驚きました。

さらにいろいろ調べてみましたら、三宅正太郎という方は、泉鏡花を囲む会、「九九九会」のメンバーであり、文壇とも深い関係をもっていたことがわかりました。
会費が九円九十九銭であることからこの名がついたこの会は、水上瀧太郎(明治生命取締役、小説家)を発起人として、岡田三郎助(洋画家)、鏑木清方(日本画家)、三宅正太郎、里見弴、久保田万太郎、小村雪岱(日本画家)の7名で結成され、鏡花が亡くなる直前まで毎月日本橋「藤村」で会合を持ったそうです。
鏡花先生ご自身がこの会のことを短い文章にしてまして、青空文庫で読めました(泉鏡太郎 九九九會小記)のでご紹介しておきます。

三宅正太郎判事の最初の随筆集「法官余談」は、題字を里見弴、装幀を小村雪岱が担当し、里見と久保田万太郎がそれぞれ序文をよせています。
そしてこの「法官余談」に収められた随筆「或る素材」を、久保田万太郎が戯曲化したのが、「螢」であり、これが昭和16年に初演されるや、名作として新派の十八番となり、やがて花柳十種(※花柳章太郎の代表的な10の芝居として選定された演目)のうちに数えられるまでになったと知りました。

また、こちらは八重子十種として知られる泉鏡花原作の演目「滝の白糸」の法廷の場についてもやはり内藤・岸コンビが演出に関与したという話もあります。
(参考文献:鈴木としお『浅草』創林社,1980.1)

このように、戦前から戦後にかけて、芸界と広い交友関係を結んでいたのは決して内藤だけというわけではなく、三宅正太郎と九九九会の面々、とくに久保田万太郎との交友、久保田が劇作家をつとめた新派との深い関係性、さらには三宅の部下であった判事たちの以前からの新派との関わり、これらがすべて布石となって、水谷八重子へのポスターモデル依頼につながったのであろうと想像します。

そして、当時の裁判官たちの交友関係が、現在に比べると考えられないくらい開放的であったろうことも…

内藤さんはそれを「大審院も暇だったのでしょう」と軽くおっしゃいましたが、果たしていまの裁判官の閉鎖性というものは、仕事の忙しさだけでそうなっているものなのだろうか、ちょっと考えてしまいました。


さて、三宅正太郎判事については、先に引用した内藤さんのインタビューで、死体が見つからない殺人事件を担当してたときに、占い師がこの橋の下に沈んでいるというのでポケットマネーで潜水夫を雇って死体を探させたという、メチャクチャ面白い話も紹介されているので是非お読みください。


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