『おせんべいくんとぷりんちゃん』11話
11話
さあ、何から始めようか。
おせんべいくんは、気分が落ち込んだ時、いつも、こう言って自分に言い聞かせていました。
どうやって終わらせるのか、ではなく、何から始めるのか。
この考え方は、おせんべいくんの胸を震わせ、新しい、なにか良いことが起こるような、ワクワクした期待感を、自身に感じさせました。
しかし、必ずといっていいほど、その高揚した気分は、冷酷な現実によって、あっさりと裏切られることになるということも、おせんべいくんは、理解していました。
人は忘れ、同じ失敗をなんどもなんども繰り返す。
逃げられない運命の輪の中を、ただいたずらに、駆けずり回っているだけの、まるで、カゴの中のハムスターのような、哀れで、救いようのない、小さな生命体。
それが人間なのだということを、おせんべいくんは、自らの短い人生の中で、知ってしまっていました。
良いことの後には、必ずそれと同じ質量の、悪いことが起きる。
いやなことから逃げたときには、必ず、逃げ続けた報いが、自分に返ってくる。
行動と結果は、常に善悪の絡み合いによって、操作されている。
本当の自由や、真実というものは、この世の中にはないのかもしれない。
そんなことを、おせんべいくんは考えるようになりました。
クラスメイトによく言われました。
「お前は考えすぎなんだよ」
しかし、おせんべいくんは、頭の中を空っぽにすることはできませんでした。
常になにかを考えてしまう。
悪口、影口、ヒソヒソ話。
悪口、影口、ヒソヒソ話。
いつも誰かが、自分のことを笑っている。
いつも自分は、仲間はずれにされている。
そう思い込むと、ますます他人と喋れなくなる、一種の病気のようなものを、おせんべいくんは抱えていました。
そして、もっともおせんべいくんを戸惑わせたのは、そのように悲劇のヒーローを演じることで、他人に、同情されよう、憐れんでもらって、他人に優しくされようというような、あさましき考えが、自分自身に芽生え始めていた、ということでした。
いや、それは違う、僕はそんな計算高い人間じゃない、僕は人とうまくコミュニケーションがとれないだけなんだ。
そう言い聞かせる自分もまた、どこか作為的な感じがして、おせんべいくんは、なにが自分の本性なのか、どこからどこまでが自分の考えで、どこからどこまでが、他人の考えなのか、わからなくなりました。
そういうことを考え出す時、おせんべいくんは、決まって、壮絶な自己嫌悪に陥りました。
自分だけの世界に閉じこもって、誰もいない世界に逃げて、自分だけがよければいい、あとはどうなってもいい、というような、救いようのないエゴイズムに、囚われたとき、おせんべいくんが、その問答を終わらせるためにとる唯一のカードが、自己嫌悪でした。
こんなことを考え出す自分がいけないんだ、
いっそのこと、いなくなってしまえばいい。
死んでしまえばいい。
それが、問答の終着点でした。
けれど、死ぬような勇気もありません。
体はしっかりと飢えを感じているから、おめおめと食べ物を食べ、しかし、精神だけが、ゆっくりと死んでいくのです。
ただゆっくりと、ゆっくりと、死んでいくのです。
この精神状態のタイトルとして、おせんべいくんは、こう名付けました。
「緩慢な死」と。
甘き死よ、来たれ。
僕は、甘んじてそれを受けよう。
時間だけがゆっくりと過ぎていき、年齢だけが、ただ重なっていく。
そのようにして、おせんべいくんの人生は、終わっていくのだな、と、常々考えていました。
みんなは精一杯生きて、楽しんで、いろんな責任や、つらいことに立ち向かいながら、立派に、大人として成長していくんだ。
僕は、ひたすら、暗い濁った海の中を、ただ、ゆっくりと、流れに身を任せて、クラゲのように漂っているだけなんだ。
それで、終わりだ。
あっという間に、人生は、終わってしまうんだろう。
誰かが捨てたゴミ箱の中に落ちているハンバーガーを、食べて、みじめに生きながらえている、小さき弱気存在、そして、誰からも相手にされず、ただ磨り減った他人の靴底に踏み潰されて、僕の人生は、虫けらのように、あっけなく終わるんだろう。
続く