戦うことを放棄するということ
例えば、クラスで、職場で、妙につっかかってくるやつがいるとする。
合わないな、とお互いが感じ合い、口を開けば何かあらを探して、攻撃して、こちらが嫌だと感じていることを、遠回しにわざとやる。
そういうのは、寂しい人生だ。
張り合っても勝ち目はない。そいつの目的は挑発で、こっちがカッとなって言い返すのを待っているのだ。怒りに任せたら、相手の思うツボ。
そういうとき、僕は戦いを放棄して、距離をとるようにしている。
近寄らないことが、大事だ。
けれど、学級委員だったり、席が近くだったり、ミーティングや朝礼で、止むを得ず、近くによってしまわなくてはならないときもある。
そういう時は、意識的に距離をとることもできないから、すごくストレスを感じてしまう。
特に、自分が中心になってしゃべらなくてはならないときなんかは最悪だ。
無意味な咳払いをしたり、ペンで机をトントン叩いたり、とにかく邪魔をしたいのだろう。
気にしなければいいのだが、病み上がりということもあって、どうしても神経質になってしまう。
なんというか、怒りに身を任せてしまいそうな自分がいるし、逆に、萎縮してしまって、まったくろれつが回らないくらい何を喋っているのかわからなくなることもある。
僕はストレスを感じた時に、うまく人前でしゃべれない。
精神が分離したようになって、話の中心がぶれて、あたふたしてしまう。
悪い癖が出てしまうのだ。
負けるか、と思うんだけど、昔の怖かった父親のこととか、暴力教師とかのことを思い出して、震えてしまうのだ。
情けない。
そういう時は、自分をできるだけ応援してくれる人と接することにしている。
萎縮してしまった自己肯定感を、もう一度、肯定してもらうために。
結局、人によって傷つけられた心は、人によって、癒してもらうしかない。
それを、再認識した1日でした。