現像していないネガフィルムに残るセルフヌードについて娘に語る母
「あれ、フィルムカメラでしょう?」
リビングの飾り棚にある古い一眼レフカメラを指して、高二の娘が言った。
「そうよ。昔の一眼レフカメラ。あなたのおじいちゃんからママがもらったものなの。昔はママもあれで写真を撮ったわ」
「見ていい?」
「いいよ」
娘はカメラを手に取った。
「重っ!」
「そうね。両手でしっかり持たないと」
「機械!って感じね。これ画素数どのくらいなの?」
「え?」
「画素数」
「あなた、フィルムカメラってどういうものかわかってる?」
「うーん。正直よくわかってないかも」
「ちょっと貸して」
カメラのことになると適当に流すことができない私は、受け取ったカメラの裏蓋ロックを解除して開いて見せた。
「中はこうなっていて」
「うん」
シャッター速度のダイヤルを低速にセットして、巻き上げレーバを引く。
「見てて」
「うん」
シャターボタンを押すと、シャッターが開き、すぐに閉じた。
「フィルムカメラって、こういう事なの」
娘の頭の周囲に「?」マークが浮かんでいるのがわかる。
「ここが今みたいに開いて、フィルムに光が当たって、写真が撮れるの」
付いている標準レンズを外して、もう一度同じ事をしてみる。
「わかった?フィルムに光を届けることだけをするのがフィルムカメラで、どんな写真が撮れるのかは、このレンズとフィルムの性能でほぼ決まるの」
「わかったような、わかんないような」
「そうよね。今さらいらない知識だし。とにかく、カメラの性能としての画素数っていうのは無いの」
「ふ〜ん。ここにフィルムを入れるのね」
「そうね。36枚撮りとか、24枚とか」
「それだけ?」
「そうよ。今みたいに何百枚もパシパシ撮れないから真剣なの。一枚ごとにね」
そう。一枚ごとに真剣だった。父からもらったこのカメラは、私の高校時代にはすでに時代遅れの重い機械式だった。オートフォーカスで自動露出、自動巻き上げが一般的だったけれど、私はこの重い無骨なカメラを操作して写真を撮るのが好きだった。
「これ、重くて自撮りとか無理ね」
「難しいわね。どんなふうに写るのかも見えないし」
「そうか」
「でも、頑張って撮ったのよ。これしか無いんだから。セルフタイマーで」
スマホでの自撮りが日常になっている娘には理解しにくい世界だろうと思う。私にとっては日常ではなく特別なことだった。
「ママもやった?」
「え?」
「自撮り」
「そうね。ママも若い頃はやったわ」
「このカメラで?」
「そう」
「写真あるの?見たい」
「自撮りの?」
「そう」
「無いわ」
「なんで?捨てた?」
「捨ててない」
「え?どういうこと?」
「うーん、なんというかロマンチックなお話、ということにしようかな」
「え?なんだかわからない」
「ちょっと待ってて」
「これがフィルムカメラのフィルム」
寝室の私物箱から出して持って来たパトローネを娘に見せ、カメラの裏蓋を開く。
「ここに入れるの」
「へぇ」
「新しいフィルムはここから端が出ていて、それを引っ張り出して、こっちの、ここに引っ掛けて巻き上げていくの」
「これは?」
「撮り終わったら、このレバーをくるくるして巻き戻すの。で、最後まで巻き込んじゃうからこうなってる」
「これ、撮り終わったものなのね」
「そう」
「何か書いてある」
パトローネに黒マジックで、撮影日が書いてある。
「日付ね。ママがまだ高校生の頃」
「その頃のフィルムなの?」
「そう」
「N、って書いてあるね」
「うん」
「何?」
「ああ、これ」
「何?」
「ヌード」
「え?」
「ヌードのNね、これ」
「え?」
「このフォルムにはね、ママの裸が写っているの」
「え〜!」
「自分で撮ったのよ。自撮りね」
「ママが高校生の時の裸!?」
「そう」
パトローネに記された数字とNの文字から、あの時の記憶が蘇る。裸になってレンズを見つめ、ドキドキしながらセルフタイマーの音を聴いたあの日のことを。若かった自分の冒険心のことを。
「ねえママ、フィルムがここにあるということは、撮っただけで現像してないってこと?」
「そうね」
「じゃあ、写真見てないの?」
「見てない」
「何のために撮ったのよ。現像しなきゃ意味がないじゃない」
「そんなことないわ、と今は思っている」
「なんで?」
「なんでかな。これ撮ったあとでずいぶん悩んだ記憶がある。どうしようかなって。お店にこれを持って行って、現像とプリントをしてもらわないと写真を見ることができないの。お店とのやりとりに躊躇したのが大きいかな」
「でも、撮ったんだから見たいと思わなかった?」
「それは思ったわ。でも今になって思うのは」
「うん」
「このフィルムの中に閉じ込めておいたのもよかったかもって思う」
「わからない」
「撮ったのは自分で、その時の記憶がこの中に詰まっているわけ。もう何十年も昔のことだから、フィルムの画像は消えちゃっているかもしれないけど、確かに自分で撮ったんだ、ってこのフィルムがあることで思うことができるの。それでいいのよ。現像したって誰に見せるわけでもないしね」
「わかった、ようなわからないような」
「このカメラにはそんな思い出もあるの。そういうこと。ちょっとロマンチックだと思わない?」
「どうかな〜。わかんないわ」
スマホの時代になって、写真というもののあり方は様変わりしてしまった。今なら簡単に自撮りヌードを撮影し、自分ひとりだけで見ることもできるだろう。私が知らないだけで、娘もそんな撮影をしているのかもしれない。かつての自分がそうであったように。
「私もやってみようかな」
「え?」
「自撮りヌード。フィルムで。それで現像しないの」
「真似するの?」
「悪い?」
「いいけど」
「今度このカメラ貸して」
「本気?」
「まだわかんないけどね。でも、ロマンチックって、ちょっとわかるような気がして来た」
娘はカメラを手に取って構え、私にレンズを向けた。
「なんか画面がボケている」
「手でピントを合わせるの。これを回して」
「あー。ほんとだ、面白い」
「全部自分でセットして撮るのよ」
「面白い」
娘が自撮りで裸を撮るというのなら、このカメラを貸そうと思う。裸になって、このカメラの前でドキドキしてみなさい。私は娘が構えたままのカメラに向かって微笑む。