鯨の宇宙

鯨に住んではや十八年。
十八年間ひきこもり。
一度も外へ出ちゃいない。

積もり積もった借金のがれに、苦肉の策で鯨に住んだが、こいつが案外居心地がいい。
絶対安全な隠れ家を貸します、ってんで不動産屋に紹介されたが、たしかにこりゃあ掘り出し物だ。
家賃はいらない、食費はタダ、借金取りには見つからない、
鯨の腹に巣食う悪い虫を駆除してやれば、鯨も満足、いいことずくめだ。
早い話が住み込みの管理人。

長いこと住んでりゃあ愛着だって湧いてくる。
なにしろ鯨は大家で住居。
だんだん気持ちが通じるような気もしてくる。
単なる鯨じゃ失礼だ。なべさんと呼ぼう。
名前に深い意味はない。

とにかく食うには困らない。
毎日毎日、なべさんが海産物をのみこんでくれる。
マグロ、シャケ、エイ、ヒラメにコンブ、ホタテ、イセエビ、スルメイカ
サワラ、トビウオ、フナ、アジ、アンコウ
…フナ?
おいおいなべさん、あんたどこを泳いでいるんだ。

それがすべての始まりだった。
フナがすべての始まりだった。
金貨や宝石がぎっちり詰まった宝の箱はまだわかる。
どこでクロコダイルのバッグを飲み込んだ。
生きているフクロウが飲み込まれたのも不思議だが、生きている始祖鳥はもっと不思議だ。
謎の水晶ドクロと、『源氏物語』雲隠の巻と、チャップリンのサイン色紙と、ワルサーP38と、ツチノコのミイラと、ロマノフ王朝幻の五十七個目のイースターエッグが三日おきに飲み込まれ、仕上げの気象衛星ひまわりが俺の正気を奪いそうになった。
なべさん!いったい外では何が起きてるんだあっ!

ここを出るのはしのびないが、外の世界も気にかかる。
借金取りはおそろしいが、このお宝を売ればどうにでもなる。
ええいままよと、クロコのカバンにお宝詰めて、脱出用の穴に飛び込めば、
たちまちなべさん身をよじり痙攣し、超特大の潮吹きで俺を天空に吹き出した。
ばばばばばしゃああああああんんん

あ…
宇宙…

星空がまるで海一面の夜光虫のように、頭の上から足の下まで全方位的に広がり、金色に輝く太陽が空中でゆっくり回転する俺と、カバンからこぼれだした百枚のスペイン金貨を照らし出す。
体が回転するにつれ、大きな大きなマッコウクジラのなべさんと、その向こうに浮かぶもっと大きな地球が見える。

なべさああああん、あんた一体なにがどうやってこんなところを泳いでるんだああああ。
そう問い詰める時間もあらばこそ、全天を覆うほどの巨大な黒い生き物が銀河の向こうからあらわれ、ぐわありとその口をあけて、星も太陽も月も地球もなべさんも俺も、ひゅるひゅるるるるるるると呑み込んでしまうううううううううう。

…鯨に住んではや四十年。
四十年間引きこもり。
宇宙丸ごと引きこもり。
時々、はるか向こうの星の彼方から、四角い太陽やら、虎縞の霧やら、翼の生えた巨大なピンクのイカやら、得体の知れないものが飲み込まれてくる。
なあ、なべさん。
この鯨の外は、どんな世界なんだろうな。

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