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青い春をえがくひと

こんにちは、umeです。
以前沼落ちブログとも言えない激重文章でお目にかかったことがあるかもしれません。読んでくださった方、素敵なリアクションをくださった方、ありがとうございました。

今回、2023年1月8日に開催されましたBOOK ACT、岩谷翔吾さんの書き下ろし脚本である『さくら舞う頃、君を想う』を観劇させて頂きました。思うこと、感じること、気づいたこと、考えること、色々あったので少しばかりここに書き残して置こうと思います。もうアーカイブもろくに見れていないし、その日その場思ったこと、覚えている限りのことを帰り道から泊まったネカフェで猛烈な勢いで書いたので、ぐちゃぐちゃもいいところです。

作品の感想、考察、脚本を書いた岩谷翔吾さんのこと。現地に足を運んだ方、配信をご覧になった方、思うことはそれぞれ異なるかとは思いますが、ひとりの限界オタクの一解釈だと思っていただければいいかな、と思います。

◾︎ 不器用で優しい青年の挫折と後悔について

『さくら舞う頃、君を想う』は言ってしまえば全く難しい話ではありません。夢を持った普通の男子高校生が恋愛をして、親友と理想を分かちあって、挫折や後悔をしながら大人になっていく。ごくごくありふれた分かりやすいストーリーです。難解ではないから、普段小説やフィクションに触れていない人でもすっと飲み込みやすい物語だと思います。

主人公である北村一翔のモノローグからはじまる『MY PRAYER』題材にしたこの物語は、ラブストーリーと一言で表現するにはかなり情報量が多いです。白石あいちゃんとの恋愛模様だけではなく、そこには親友である青山大地との衝突や母子家庭が故の母の強さと優しさ、直面した現実と理想のギャップに苦しむ一翔に手を差し伸べる叔父など、これは一種のヒューマンドラマと表現した方が近いかな、と感じました。

物語の土台には高校生の初々しい恋愛があるけれど、時が進むに連れて自分の理想とは異なった生き方を選んだ一翔はこの先どう生きていくべきなのか。それを追求していく方がメインかなと思います。あいちゃんとの別れのシーンで「俺にはあいちゃんしかいない」と言いつつ、自分の生き方に対して手を差し伸べてくれたのは母や叔父の存在がより大きいような気もします。

何様だよと思うかもしれませんが恋愛を主軸とするには、ほんのちょっとだけあいちゃんとのやり取りに深みが足りないかもしれないなと思ったりもしました。いい作品なだけに、物凄く惜しい感じ。でもきっと次を出す時は、そんなことないんだろうなぁ……(オタク心)

高校時代の話はかなりテンポが良かったです。高校の3年間はあっという間で、出会ってから「白石さん」が「あいちゃん」になるのもかなりのスピード感がありました。えらく自然に「あいちゃん」なんてかわいい言葉が藤原樹さんの口から出てくるので少々驚きました。結構女の子と距離を詰めるのは早いんですね、一翔くん……高校生っぽくて好きだな……

恐らく翔吾さんが書きたかったのは高校時代の淡い恋心が徐々に実っていく過程というよりも、その先に待っているリアルにもみくちゃにされてしまった一翔との変化と、引っ張るなり背中を押すなりしてあの青春時代へと一翔をもう一度送り出そうとするあいちゃんをはじめとした周りの救いの言葉だったのだと思います。

中盤、頑なにダンスを諦めると言い張り、あいちゃんや大地のことをぞんざいに扱う一翔に、正直言うとめっちゃくちゃに腹立ちました。自分にこんなに親身になってくれて、諦めようとしていた夢をもう一度拾い上げてくれる人なんてなかなかいないのに。自分の持てる言葉の全てで全力で一翔を立ち上がらせようとしてくれているのに、なんて奴なんだお前は〜〜!!(怒)とならざるを得ませんでした。

ただ、これは経験則でしかないのですが、実際あまりに自分にとって厳しい現実に直面していると、理想を追い求めてキラキラ輝いている人間を疎ましく思うこともあります。羨ましさのあまり、きつい言葉を投げてしまうこともあります

自分と同じ境遇にいるわけでもないのに、わかったような口を聞くなと突っぱねてしまいたくなります。それはきっと一翔もそうしたかった訳ではなくて、そうでもしなければ一番大きな心の拠り所であったダンスを諦めて、会社員として働いている今の自分を認めてあげられなかったんだろうなと思います。

母親の一件があってからの一翔の態度はとても褒められたものではありませんが、わたしは一翔が自分の置かれた環境のことを「母が倒れたせいだ」と口にしなかったのは良かったなと思いました。一生懸命すぎるあまり本来の目的を見失ってしまった一翔。あの状況で無理やりダンスを続けることだってできたと思います。でも責任感が強くて優しい母を見て育った一翔はそうすることができなかった。だからダンスが出来なくなったことを「母のせいだ」と責めることはしませんでした。

それは両親が離婚してしまった時に自分が母に対して鋭い言葉を投げつけて、傷つけてしまったことがあるからなのかもしれません。すごく不器用だけど優しい子だから、大切なものを一度にできるだけ大事にたくさん抱えようとして、結果手のひらからぽろぽろ零してしまっていたのかな。

手遅れになってしまう前に
ただ君を愛してると
それだけを君に伝えたい

恐らく最後の屋上の部分は、ここの歌詞に当てはまると思います。手遅れになってしまう前に自分がどう思っているかをあいちゃんに伝えたい、結果としてそれは上手くいかなかったけれど、完全に縁が切れてしまう前に伝えられたことは一翔にとってこれからの人生を前を向いて生きていくのに必要なきっかけだったのではないでしょうか。

あのエンディングに関しては、受け取り方は人それぞれだと思います。正直あのまま復縁してもいいんじゃね?って思う人は一定数いるかもしれません。でも最後にあいちゃんの背中を見て一翔が味わった喪失感はきっと無駄なものではなくて、季節が巡ってさくらが舞う度に一翔はこの寂しさを思い出してきちんと自分の背筋を伸ばすことが出来るはずです。

◾︎ 岩谷翔吾さんという『作家』を考える

今回この作品を第一作目として考えるのであれば、場面転換や物語の緩急など、完全な受け手側からすると100%すごい!と手放しで褒められる部分ばかりではありませんでした。(ちらほら見かけますが階段の問題は書き間違いなのか言い間違いなのかわからないので小説で欲しいです)

ただ朗読劇ということで地の文をモノローグ調にしたり、場面を削ってスピード感を出さざるを得なかった部分があると思います。作家の技量をフルで使うことができないのがすごくもったいないなと思いつつ、じゃあ今書いているらしい次回作はもっともっと良いものなのでは?と期待を持たせてくれるという意味ではすっごく良いスタートだったと思います。

人が初めて作品を披露する瞬間に立ち会えるのってその一回きりで、かなり尊いものですから、私は今日の感覚を忘れたくないなと思って超特急で今これを書いています。

今回の『さくら舞う頃、君を想う』は翔吾さんの趣味嗜好と、インプットしてきた作品の色がかなり濃く出ているなと感じました。過去回想から物語が始まり、眩しく輝くひとときの青春時代、唐突にぶつかる現実という高い壁、環境の変化に伴う人々の関係性が崩れていく様、そしてそこにどう手を差し伸べていくか。

直近インスタで公開してくれていた凪良ゆう先生の『汝、星のごとく』『流浪の月』カツセマサヒコさんの『明け方の若者たち』、鑑賞していた映画なら『花束みたいな恋をした』などがかなり顕著かなと思います。

岩谷翔吾さんの読書傾向からよく考えることなのですが、私は翔吾さんの好きな物語の根幹にはいつも①青春②喪失③救済の三つの柱があると思っています。岩谷文庫第13回で紹介された『明け方の若者たち』はそれがかなり分かりやすくなっているのではないでしょうか。

今回の物語を前述の三点に当てはめるとするなら、①青春=大地と切磋琢磨しながらプロダンサーを目指していた日々②喪失=夢と恋人と親友を一度に失った仕事漬けの日々③救済=母の言葉、叔父の夢という感じで分けられるかと思います。②の部分がかなり全面的に押し出されていたので、自分の境遇に当てはめて苦しい思いをする人も多かったのではないかと思います。あくまでも普遍的な題材を使っているからこそ、シンプルにさくっと刺さる部分でした。

翔吾さんは②の部分において『理想と現実のギャップ』を一翔と大地の二人の口論という形で表現しています。厳しい現実を必死にやり過ごす一翔と、生活に余裕はないけれど理想を追い求めて生きている大地。二人がお互いの主張を真正面からぶつけ合っているのを見て、翔吾さんの中にもきっとこういう辛さとか歯がゆさがぐちゃぐちゃになっていることがあったんだろうなと思います。

ランペが活動休止だった期間、コロナでライブ活動が制限されていた期間。それ以前にきっちりとしたレールを敷かれ公務員になることを望まれていた家庭から大きくズレて、自分のやりたいことを貫いた翔吾さんの努力や葛藤、不安や達成感。それを大きく振りかぶってこちらに投げつけられているような感覚でした。

作家の経験から生み出されるものは何よりも重たく受け手にのしかかってきます。昨年の『STARTING POINT』もそうですが、伝えてくれる生易しい理想とはかけ離れた厳しい現実に対して凄く苦しくてやりきれない気持ちが湧き上がってくるのは、翔吾さんのダンスという青春に詰まったものがそれほど大きいということでもあります。

◾︎ 『青春』をえがくひと

青春【せいしゅん】
夢や希望に満ち活力のみなぎる若い時代を、人生の春にたとえたもの。
(デジタル大辞泉より)

単純に言葉の意味として調べると、青春はこのように解釈されています。しかし一方で、このような意見もあります。

青春とは人生の或る期間を言うのではなく、 心のもち方を言う。 薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、 たくましい意志、豊かな想像力、燃える情熱をさす。 青春とは人生の深い泉の清新さを言う。(サミュエル・ウルマン「青春」より)

翔吾さんは圧倒的に後者だな、と感じます。現実主義だけど理想を忘れず、夢を追いかけて、生きる意味を探して、いつ何時も青春を忘れない人です。ごく一般のファンとして私が見るに、25歳の翔吾さんはまだ青春の真っ只中に生きているように思います。

夏が終わる
春も、秋も、冬も終わるのに
なんで夏が終わる時だけ
どこか寂しくなるんでしょうね

2022年9月1日、翔吾さんのInstagramに投稿されたこの文章は、作中で一翔の言葉として登場しました。

『青春』は青い春と書くのに、何故か夏を想起させます。夏休み、部活の大会練習、プール、海、夏期講習、花火。それらが終わってしまうのを寂しいと思うのは、青春が終わってしまうと感じるからなのではないでしょうか。そしてそれは生きる意味を見失ってしまう事を恐ろしいとすら感じるから。

私はこうして色んなことを繊細に受け取って、美しく言葉に表すことが出来る翔吾さんが本当に本当にすごいなと思います。季節の移り変わりの一つ一つに心が震えるのは、二十数年生きているとつい忘れがちになってしまうことでもあると思うからです。そしてその感動を誰かに伝えるというのは、もっと複雑で、難易度が高い。

伝えたいことを文章に起こして届ける、と言うのは想像以上に難しいことだと思います。自分の中から持てる言葉をどれだけ引っ張り出してもしっくり来なくて、思っていることの半分も伝えられなくて、それがとてつもなく悔しい。翔吾さんもあの脚本を書いている時にそう思ったことがあったかもしれません。あいちゃんや一翔に「どう言葉にしていいかわからない」というセリフがありましたが、もしかしたらそれは翔吾さんの本心かもしれません。あくまで憶測の域を出ませんが。

「一翔、お前、誰かを感動させたことある?」

人を感動させるのは容易なことではありません。言葉だけで語るのはどうにも冷たく突っぱねられがちで、目に見える形でどかんと訴えられた方がわかりやすいと思います。けれど今回朗読劇という言葉を主体とした形で、翔吾さんの紡いだ言葉で、私は確かに感動させられました。

作家という意味でなら、翔吾さんは高校時代の一翔や大地と同じようにスタートラインに立っている状態です。これから自分の言葉で物語を書いて、発表する。その先に何があるかわからないけど、好きなことの先に何があるのか見てみたい。挑戦するという『青春』をいつまでも忘れない人の描くその季節は、もっと美しいものになるだろうと、私はこの先を楽しみにしています。

◾︎ 余談

余談ですが、この物語節々に「たぶんこれ好きだったんだな」とか「ここから影響受けたんじゃないのかな」と感じる部分がありました。メモ程度に書き残しておきます。思い出したら随時更新します。

・学生〜社会人の期間、お互いの環境の大きな差、変化による恋人との距離感、家庭環境
坂本裕二「花束みたいな恋をした」
カツセマサヒコ「明け方の若者たち」
凪良ゆう「汝、星のごとく」

・『大切なもの』の考え方
吉田修一「怒り」
(以下岩谷文庫第4回の引用)
僕自身、とてつもなくつらい経験をした時、心配してくれる人もいれば、自分本位な対応をする人もいて、大切なものって増えていくんだと思っていたけれど、本当に大切なものはこうやって削ぎ落とされていくんだなと思ったことがあります。
 そして「大切なものはそんなに持てない」ということに気づいてからの方が、生きやすくなりました。


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