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ゴロワーズを愛飲している、ともう言えない

ゴロワーズを愛飲している。

ゴロワーズを愛飲している、ともう言えなくなる日が近づいている。手元のストックが30箱になってしまった。うち1箱は保管用の旧パッケージである。

わたしの知るあるひとは、煙草を辞めたときに長年連れ添った恋人を喪ったような喪失感に襲われ、涙が止まらなかったという。そのひとの感受性が豊かだからというのもあるかもしれないが、ある程度の本数を吸う身にとっては煙草とは健やかなるときも病めるときも側にいてくれる存在である(どちらかといえばストレスの溜まったときほど進むものなので、後者の側面が大きいかもしれない)。一日に1箱吸うひとは、日に20回も煙草とキスをしているわけである。恋人ともそんなにキスをすることはないだろう。

ゴロワーズ(gouloises)とは、ガリア人女性(複数形)を意味するフランス語で、わたしは彼女(ら)と、多くの時間を過ごしてきたわけだ。昨年の10月に日本での終売が決まって、それから10カートン以上、つまり100箱以上を買い溜めしておいた。間に他の銘柄を挟みながら大事に吸ってきたのだが、それももう残り3分の1。「終わり」が見えてきて、なんとなく寂しくなってくる。秋のせいもあるかもしれない。

インペリアル社が日本での発売終了を決めてから他の会社が取り扱わないだろうかと1年待ってみたが、望みは薄そうだ。このジリ貧状態に打開の道はないらしい。ゴロワーズがなくなったら禁煙しようかと考えている。わたしにとっては煙草とはほとんど「ゴロワーズ」の意味になってしまっていて、他の煙草で肺を埋めるくらいなら辞めてしまった方がいいとさえ思うのである。それほどにこの煙草が好きだった。

どうしても沈痛な書きぶりになってしまう。終わりがわかっているものを待ち受けるのは難しいことだ。「女/男なんて星の数ほどいる」というもはやクリシェと化した慰め文句があるが、その言葉を聞かされたひとの多くと同様に、わたしもこの文句に対して聞く耳を持たない。煙草の銘柄が星の数ほどあったとしても、わたしにとって太陽はひとつだけなのだから(この返答ももはやクリシェだ)。

太陽。無尽蔵に己を与え続ける至高の一点。それに比べたら小さな火かもしれない。ものの5分で燃え尽きてしまう火種だ。だが、それに温められた経験は数知れない。

わたしは煙草を短くなるまで吸う人間である。煙草の値段が高くなって昔よりも大事に根元まで吸うひとは増えたのかもしれないが、それでも、街の喫煙所や喫茶店で捨てられている吸い殻を見ると、半分も吸わないひとというのは少なくない。彼女ら彼らにとっては煙草はいつでも吸えるものなのだろう。わたしとは根本的に(「ねもと」的にと読んでもよい)吸い方が違うようだ。無くなれば買えばよい、が通用しない。無くなったら終わりなのである。最後のひと吸いまでわたしは大事に吸い切るだろう。

とはいえ、けち臭く逓減を生きるつもりもない。ゴロワーズを美味しいと言ってくれるひとや、吸ってみたいというひとには何本でも与えたい。太陽にはなれないが、わたしもまた気前よく煙草を楽しみたい人間のひとりである。

さあ皆さん どうぞこちらへ!
いろんなタバコが取り揃えてあります どれからなりとおためし下さい

稲垣足穂『一千一秒物語』より

稲垣足穂のようにたくさんは取り揃えていないが、あなたも是非、ゴロワーズを一緒にどうぞ。

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