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相照らしあう石たち──李禹煥展

correspondance。照応。好きな言葉だ。co-という接頭辞にrespondがくっついている。照応という日本語もよい、何か「もの」が照らしあっている。光を当てるということでもあり、己の存在を誰かに負い、参照している、ということでもある。文通という意味もある(その場合は「コレポン」などと略されたりするらしい)。以前、光栄にも、あるオリジナルカクテルの命名を頼まれたことがあり、「コレスポンダンス」という名をつけさせてもらった。近所ではないが、その地を訪ねる際には必ず訪れるというようなバーがあり、そこのマスターが即興で作ってくれたカクテルである。わたしは偶然が好きで、予期せぬ一致には慄きの混じった興奮を覚えずにはいられないものだが、そこのマスターと誕生日が同じだということが判明した日もそうだった。好んで読む文学の趣味が極めて近しく、また心理学を勉強していた背景もあり、それだけで数奇な巡り合わせにうれしくなったものだが、そこへ来てのさらなる偶然であった。そのような偶然には何かしら必然を見出してみたくもなる、偶然とは掴みなおされた必然の謂いなのだろう。それもあってか、ひとくち飲んでこれだ、と思った。万物が照らし合うという、その名にふさわしい場であり、マスターであり、カクテルだった。度数もかなり高く、ひとくち含むごとに踏み入れる酩酊は、他者との「交流」の波に誘われるかのようでもある。

さて、そのコレスポンダンスであるが、これは「もの」の地平に降り立とうとするものの合言葉のようなものでもあるらしい。ボードレールの「万物照応」は有名だけれども、それに影響を与えたというスウェーデンボルグや、わたしの知るなかではティム・インゴルドの述べるコレスポンダンスもそう。そして、李禹煥の「照応」である。

兵庫県立美術館では李禹煥展が開催されており、先の週末に訪れた。作品は概ね時系列で展示されており、《照応》はかなり後半の方で観ることができる。そこに至るまでには前半の作品群を通り抜けなければならないが、これはひとりの作家の歴史としての必然のみならず、ものの間を通り抜けていくということの必然でもあるかのように思われる。

前半では、直接的なもの同士の接触が印象的である。《関係項》(1968/2019)では石や鉄、ガラスのような素材が接触しており、重量のある石によってガラスは砕かれている。強い接触だ。《現象と知覚A 改題 関係項》(1969/2022)では引き延ばされたゴム製のメジャーの上に石が乗っているが、そのメジャーの感覚が広かったり狭かったりして、石の重量とともにゴムによって石が引き寄せられようとするさまが視覚的にもわかりやすく提示されている。あるいは《構造A 改題 関係項》(1969/2022)では、鉄板でできた立方体の各辺に柔らかそうな綿が挟まっていることで、硬さと柔らかさのあいまった緊張感がある。

だがそれも《関係項─サイレンス》(1979/2005)となると緊張感は空間を隔てたものになる。壁に凭せかけた鉄板に少し距離を置いて石が置かれている。この作品を前にして感じる緊張感は、この鉄板が何かの弾みで石の方に倒れたらどうなるだろうか、どんなに大きな音がするだろうか、という予感である。倒れたら爆音が響くだろう、だが今は倒れていないので爆音が響かない、という「サイレンス」。それが石と鉄板との間の関係であり、囲うようにして描き出された沈黙の姿だ。この鑑賞の過程では、わたしの想像力が動員されている。具体的には、鉄板が倒れるイメージであり、あるいは逆に石の方からも鉄板に引き寄せられていくイメージである。この想像力はのちの作品の鑑賞でも大いに必要となってくるものだった。

箱庭に敷き詰められた作品、というよりは箱庭という作品と言おうか、《関係項─棲処B》(2017/2022)はわたしたち鑑賞者が触れることのできる作品だ。ひとつの意味では、敷き詰められた石という素材の上を踏み歩いて、その感触や音を鑑賞できるということであり、もうひとつの意味では、その石を含めた空間のなかのひとつの「項」としてそこに参与できるということである。そことはどこか。写真を撮ったり眺めたり、つまりは距離を置いて出会うのではなく、時間が流れているのか止まっているのか、そういった区分さえ定かならぬ「もの」としてそこに「いる」、そこに「ある」という、ものの地平である。時間をかけて歩いていると不思議なもので、わたしも石というか風というか、物質なのだということが感じられてくる。流れる時間も遅いというか速いというか、石の生きる時間を間借りしているようだ。ずっとそこに居たい気もするし、そこにいなくてももともと自分はここにいたような気もする。そう、ここは「棲処」である。

庭をぐるりと回ると、少し広めの空間にいくつもの作品が置かれている。まるで鉄板を破り出でてきたかのような石があり、ステンレスの棒を支える石があり、鉄板と呼ばい合っている石があり、石のさまざまな表情を垣間見ているようだった。石が愛おしい。本当に顔があり、それぞれの特異性がある。幼い時分以来、どれほど石とともにあろうとしてきただろうかと感じる。それぞれの石は生きている。それぞれの作品には作品名とキャプションが与えられてこの同じ空間を共有しているが、この空間こそが李禹煥の表現の意図するところではないかとさえ思う。あちらで鉄板を起こそうとしている石がおり、こちらではこんな石がおり、はたまたこっちには……「もの」がある。人間が石に人格を与えて人間化せずとも、人間がものの地平にまで降り立つ方が「はやい」のではないか。われわれが石化(いしか)し、鉄化すればよい。石化(せきか)といえば凝り固まってしまったかのように思うが、石-化、石と化すことはずっと自由な流れのうちに参入することだ。石化(せきか)とは、石の死せる相を押しつけることであるが、本当に石になることができたなら、もうその流れを食い止めることはできないだろう。そう、その流れとは万物が相照らしあう、コレスポンダンスのことである。

展示の後半では《点より》《線より》といった同じパターンを繰り返し描いた作品が出てくる。ここまで来ると、それぞれの素材は極端に抽象化されて、あるいはものがリズムとして描かれているように思われる。このものの流れを微視的に捉えようとしたとき、小さなパターンと、その少しのズレとが、俯瞰的に見たときに何らかの模様を描く。その模様を石の紋様と捉えてもよいかもしれないが、この模様とは生命の、コレスポンダンスの流れのようだ。

そして《照応》(1992)。絵具が縦や横に短く引かれているのが目を引くが、描かれていない部分こそがこの作品の主題だろう。絵具の線が互いに照らし合うこの「あいだ」。コレスポンダンスが起こっているということをあえて示す挙措といえばこの空間の取り方だけであって、ただコレスポンダンスしている、ただ照らし合っているさまがそこにはある。だがその「シンプル」な画面において、石は粒子と化している。用いられている絵具は岩絵具であり、近付くととのざらつきがよく見える。今までたくさん目にしてきたあの大きく存在感のある石は砕かれ、絵具となってタブローを構成している。ついさっきまで石が生き生きしていたのを見ていた身からすると、このシンプルな図面にはかえって凄味を感じずにはいられない。

タブローとはいっても平面ではなく、極限まで厚みを削ぎ落とされた石の姿。その「石」と「石」のあいだに広がる充実した「隙間」。もう「石」でなくともよい、粒となり、「対話」し、「応答」しあうわれわれである。

李禹煥展は兵庫県立美術館で2023年2月12日(日)まで。


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