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バイク免許合宿4日目──聚合

朝食をすっぽかす。でもそれでいい。わたしはよく眠った。朝食の時間に起きられないくらい眠った。不眠症のわたしにとってみたら、こんなの満点だ。昨日Aさんと飲んだお酒のせいもあったろうけれど、よく眠ってしまって、朝食の規定時間を過ぎてしまった。夜にこんなにも眠れたのは久々だと思う。昨晩は夕食を2食も食べたので、正直お腹もいっぱいだった。これでいい。

教習所に向かうバスにはなんとか間に合った。いつものように昼食を済ませて煙草を吸っていると、コンビニにRさんがやってくる。今日はRさんからサロンパスを借りることになっていた。連日の教習のせいか、固いマットレスのせいか(さすがに4日目にもなって理由が後者らしいということもだんだん明らかになってきているのだけれども)、なかなか筋肉痛が取れずにいたので、恩に切るばかりだ。

Rさんも次のコマまで時間があるということだったので、散歩がてら川沿いを歩くことにした。Rさんはパイプを持ってきていて吸わせてくれるという。河原に降り、橋梁の下まで来ると、Rさんは自前のパイプセットを広げはじめる。実はパイプは吸ったことなかったのだけれど、関心だけはずっとあった。モノの扱いの濃やかなRさんがぼくのためにパイプを準備してくれる。川の向こう岸には外国人らしきひとたちが十人ほど集って、パーリナイな音楽をかけながらバーベキューをしているし、その音楽や、かしましい声を聞いていると、どこか教習所からは程遠い空間に降り立ったような気もしてくる。初心者におすすめの葉っぱが「モモヤマ」や「アスカ」であるということや、数回に分けて葉っぱを詰めることや、パイプは吸うばかりではなく、たまに吹き戻したりするべきであるということをレクチャーしてくれる。Rさんのひとに対する気遣いは、モノの扱い同様この上ないものなのだが、やっていることがパイプに葉っぱを詰め、火をつけては吸うということでもあって、なにか悪いことをしている気にもなってくる。「葦田さん、吸い方上手ですね」なんておだてられて、わたしもついいい気持ちになる。いつまでもこうしていたいものだが、教習の時間というのは決められていて、それをすっぽかしたら何千円というような誓約書にもサインしてしまっている手前、帰らなくてはならない。

今日の教習1コマ目はクランクとS字。教官は今まで教習を受けたひとの中でも一番印象のよかったひとでもあって、気持ちよく終了することができた。2コマ目は、AT車に乗る教習で、明日の見きわめのコース通りに走るというものだった。AT車はMT車とは全然違う乗り物のようで、慣れるまで随分かかったし、スラロームや一本橋も満足のいくような出来ではなかったけれども、コースを覚えることができただけ、よしとする。

今日は昨日からの約束で、教習所近辺の有名ラーメン店に行くことになっていた。メンバーは発起人のRさんとAさん、そしてRさんの友人のYさん。さらには「旅の恥は掻き捨て」を地で行くRさんが今日声をかけて参加することになったMさんとCさん。Mさんは同日入校で大型バイクの免許を取りに来ているひとだが薄手のタンクトップに半パンという出立ちで来ていて、このひとただものじゃねーだろと思っていたひとだった(そしてのちにわかるが、やはりただものではなかった)。もうひとりのCさんもただものではなく、日本で最高の「学歴」を持っていながら、あちこちを旅するようなひとで、東京から10時間かけて深夜にクロスカブを走らせて教習所にやってきていた。6人のうち、4人はMさんの私有車に乗り、Cさん含む2人はCさんのバイクでラーメン屋に行く。一昨日、RさんYさんと行ったのは支店だったけれども、本店はまた格が違う。美味しいラーメンに舌鼓を打ってわたしたちは、店を後にした。

そのあとは銭湯へ。熱い温泉に浸かりながらあんなことやこんなことを話しながら長湯をした。さすがにのぼせた。まるで修学旅行の合宿のようだった。というか、わたしはこんな修学旅行を経験しなかったぞ、と思うほどにきらきらしい時間が流れている。青春に酒はつきものだ。風呂上がりの火照りもそのままに近所のスーパーマーケットでお酒を買って教習所近くの公園で宴を始めた。

各々のお酒に地酒とちょっとのおつまみ。誰が場を仕切るでも仕切らないでもなく、わたしたちは一期一会の邂逅をただただあたためていた。宿舎には23時という早すぎる門限があって、わたしたちも仕方なく片付けをしなくてはならなかったのだけれども、また明晩、同じ場所で集まることにした。彼らとの出会いをずっと大事にしたいと思う。だが、延命治療のように連絡先を交換して、社交辞令のようなやりとりをするのはまた違うとも思う。今にしかない、今でしかないこの場、空間。バイクの免許を取る前にはこんな出会いがあるとは思わなかった。

免許合宿に行けばいろんな出会いがある、という。それを言葉としてはわたしも携えてきたつもりだった。けれども、出会いというのは持続とは縁のないものであって、その時にしかないものなのだろう。線ではなく、点。Mさん持参のキャンプ用ライトに半分照らされていた皆の顔を思い返すと、これはやはり、陳腐な言い方ではあるが、夢のようだったとしか思えない(知っている、半分は今晩のお酒のせいだ)。快活に話を続けるMさんの口から覗く歯、つまみのきゅうりの漬物に手を伸ばすYさんの頬、飄々と語るCさんの目つきに、高らかに笑い、他者への関心を尽くさないAさんの笑顔、煙草やチューイングガムをわたしに勧めるRさんの手つき。どれもあのキャンプライトのせいか、トラウマティックに印象に残っている(ああ、知っている、半分以上、今晩飲んだお酒のせいだ)。

随分「エモく」なってしまった。明日もまた集まるのに、明日は今日とは全く異なる日であるということも深いところで知っている。ほとんど喫煙所で広がったようなこの縁、もう煙(えん)と言いたくなるほどのこの煙の鎖。延泊はしたくないのに、残り数日の教習生活がとても惜しく感じる。

明日は9時45分に迎えのバスが来る。今日はここで擱筆する。

存在するものはすべて、他のものが存在するから存在するのだろう。ただ存在するものなどなく、すべては共存するのだ。たぶん、そうなのだ。もし、あのランプがあそこに、どこかに灯っていなかったならば、あの虚構の高みの特権性において、なにも示していない灯台がなかったならば、私は今この時間、存在していなかったのではないか。少なくとも、私がそうしているように、私自身への意識的な現存をもっては──今この瞬間は私は完全に現前としても意識としても私自身だが──存在していなかったのではないか。こんな風に私が感じるのは、私がなにも感じないからだ。そんな風に私が考えるのは、それがまったくの無だからだ。無、虚無、夜と沈黙の一部、そして、それらと一緒の私の一部、私もまた無、否定、間隔であり、私と、私自身のあいだの空間、なんらかの神の忘れ物……。

フェルナンド・ペソア「不穏の書」より(平凡社)

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