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バイク免許合宿7日目──根子

「詩人がバイク免許を取得した話」なんてタイトルにはしようと思わなくて、noteを読む層に阿るような媚態を選びたくなかった。読者を舐めているからではない。読者を舐めていないからだ。だが、詩を書いたり書かなかったりしているわたしがバイクの免許を取得しに合宿に来ているのは事実であって、毎晩なるべくその日のうちに思ったことを書き記しておこうと思っていた。もう1週間になる。流石に習慣になってきていて「これならnoteのネタになるやろ」なんて濁った目でものを見ているつもりはないが、不思議とその日のことを反芻している。バイクの免許合宿に来たからといってすぐに詩が書けるわけではなく、リルケが言うように、詩の一節は数多の経験からやっとのことでまろび出てくるものだ。単にバイクの運転技術を身につけるのみならず、わたしはわたしの意識を超えたところで、いろいろなことを学び、吸収し、忘却している。

今日、すべての教習が終了した。特に第二段階に入ってからは、新しいことを学ぶよりは、学んだことを着実にものにするということに主眼を置いていて、スラロームや一本橋、坂道発進の精度を高めようとしていた。バイクに乗っている間はバイクを運転することに本当に集中している。集中とは、エーリッヒ・フロムや桜井章一が言うように、一点への凝集というよりかは広がりを持ったものだということを感じる。信号や他の車の動向をしっかりと見ることや、教官からのアドバイスを頭の中(というよりは体の中か)で繰り返すこと、そして、それらを踏まえて両手両足をフルに使って制御するということ。これらがまとまりとなった一連の動作はまさしく、広がりとして満たされてあるようだ。わたしはバイクと一体となってバランスを取る。ならば、どうしてバイクに乗っていないときもXやYとバランスを取っていないといえようか。バイクでなくとも、靴を履き、リュックを背負って歩いているとき、わたしは、わたしとして靴を所有するように履き、所有するようにリュックを担いでいるのではなく、靴と、リュックと、あるいは他の服やアイテムとともに、バランスを取っている。

不思議と、バイクに乗っている時間は心が軽い。大阪に戻ったら処理しなければならないあれやこれやとか、他の悩みごとのことも忘れることができて、わたしは素晴らしい「玩具」を手にしたと感じる。Rさんが卒業する前の晩に、自分で書いたエッセイと短い小説を読ませてくれた。そのなかで印象的だったのが、深夜にバイクで飛ばしたくなったときにさまざまな想念が頭をもたげるが、なかでも、「自分の価値」について考えるときには、自然と速度が上がった、という話である。振り払おうとしているのかもしれないが、その速度が上がる自然さというのが、バイクと一体になっているということなのだと思う。

バイクと一体になる、と書いて、ジュリア・デュクルノー監督の『TITANE』(チタン)という映画を思い出した。カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞している作品だが、バイクと一体になる、自動車と一体になる、ということが、常軌を逸したレベルで表現されている。新しい人間の誕生。人間と車との合いの子。

さて、話も逸れた。今晩は、1週間教習を頑張った自分へのご褒美として、宿舎のすぐ近くのケーキ屋でシュークリームとクリーム大福を買った。夕食後に食べるとしよう。明日は卒業検定。卒検だからと気張るのはかえって緊張を生むような気もするが、なるべく落ち着いて、今まで学んだことをやるだけだ。Yさんは今日の卒検に落ちてしまったので、明日は一緒に検定を受けることになるだろう。一緒に合格できたらいいな。

今日は部屋を片付けなければならない。明日は宿舎を出たらもう戻ってこないからだ。初日に書いた以下のことを思い出す。

宿舎はひとり部屋で、それほど綺麗ではないが、3食は用意してもらえるし、食事以外でも、最低限のことが最低限できるようにはしてくれてあるので、生活には困らなそうだと感じる。だが、生活とはその余剰にこそ生活者が映し出されるものだ。ここまで削ぎ落とされてしまうと、なんだかとても寂しく感じる。

葦田不見「バイク免許合宿1日目──瀑布」

1週間も経てば、余剰の限りなく少ないこの部屋にも少し馴染んできていて、なんとなく名残惜しい。固いマットレスにも、断線気味のドライヤーにも慣れてしまったよ(これもまた、部屋との一体化が少し進んだということかもしれない)。街にも愛着が湧いている。煙草を吸うのに近くのコンビニまで10分弱歩かないといけないのも、今は案外悪くないと思っているし、なんならスーパーマーケットも薬局も文房具屋もあるし、いいところじゃないか。ひとは優しいし、空気はうまい。空も広ければ、星も見える。どうやら少し葦の根が張ってしまったようだ。

立つ鳥跡を濁さず。明日はさっぱりとこの地を後にしたい。孫引きで恐縮だが、東千茅の『つち式』に引用されている、真木悠介の言葉を引いて了える。

われわれの経験することのできる生の歓喜は、性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の色彩、森の喧騒に包囲されてあることであれ、いつも他者から〈作用されてあること〉の歓びである。つまり何ほどかは主体でなくなり、何ほどかは自己でなくなることである。

真木悠介『定本 真木悠介著作集Ⅲ 自我の起原』

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