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ゴロワーズを吸ったことがあるかい──何かに凝るということ

現代人というのは、あるいは消費資本主義に生きるひとというのは、何かに凝ることもなく、凝らないこともなく、自分で労働して作った生産物を、自分で買い戻すようにして、労働者と消費者のループをはやく幾度も回転させることを期待されている。

映画や音楽はサブスクリプションサービスの跋扈とともにいっそう多くの人に届くようになった。TSUTAYAで10枚借りたら安くなるからと、軽音学部の友人と頭を悩ましながら借りるアルバムを選んでいた頃が懐かしい。借りたアルバムは、朝から晩まで繰り返し何度も聴いたものだった。わたしが高校生だったのは10年やそこらの昔だから、ここ10年の変化である。


何かに凝るということ

たしかに何かに凝ることが、狂ったように凝ることが、難しくなっているのは事実だろう。だが、何かに凝ることができないからといって、それはサブスクリプションサービスのせいではない。問題は、どう付き合うかを選択する消費者、あるいは愛好者側にある。

上妻 現代社会は未だ消費主義を引きずっていて、買うことが即消費することに繋がるという前提があるように思います。例えば書籍などでも、分からない部分があればクレーム対象になり、じっくり読んで、数年後また読んで、といった愛好の姿勢が忘れられているように思います。楽器にしても、演奏できない人にとってはオブジェですが、誰しも訓練を積めば、それは美しい音楽を奏でるパートナーになります。さらに訓練を積めば、演奏が自分だけの楽しみではなく、他者にとっても価値のあるものとなります。楽器だけでなく、食べることでも読むことでも、なんでもそうですが、ある段階で分からないものや意味のないように思えていたことが、学習の過程を経ることで味わい深いものと化していく「愛好」の過程は至る所に存在します。僕は「消費から愛好へ、生産から制作へ」というテーゼを掲げていますが、実際、僕が言おうが言わまいが、文化には否応がなく段階的な敷居が存在します。作品を制作するのにも、鑑賞するのにも、批評するのにも、ある種の訓練は必須です。それは近寄りがたいものでもなんでもなくて、実は敷居があるから楽しめるものでもあります。うまくなることは自己満足でも楽しいですから。

上妻世海×宇野常寛 思想としての「遅いインターネット」

何に凝ったっていい。わたしは本を愛好しているし、ゴロワーズを愛好している。だが、最初から本やゴロワーズの愛好者ではなかった。

愛書家への道程

本を狂ったように読んでみる、なんでも濫読してみるということを大学生の頃に始めた。サークルやその他のコミュニティーに居場所がないと感じていたのもあって、とりあえず孤独でもできることだから、とやってみようと思った。最初は難しくて何を言っているかさっぱりわからない本というのも多いし、ただ文字面だけを最初から最後まで追いかけるというようなことも少なからずしてきた。どの本を選んだらいいのか、というような眼も養われていないものだから、友人のおすすめを片っ端から読んだりもしたし、自分で選んだ本も玉石混淆といったかたちで、どうでもいいような本にもお金を使った。図書館の使い方もいまひとつわかっていなかったのである。だが、そんなわからないなりの濫読も、続けていれば道が開けてくるもので、読んだ冊数が桁を増すごとに、視野が広がった。10冊読んでいる状態と、100冊読んでいる状態では文字通り「桁が違う」し、100冊と1000冊でもそう。幸いにして、自分の眼だけを頼って本を選んできた割に、陰謀論やあまりに荒唐無稽な思想にかぶれることはなかった。決して自分に審美眼があるなどとは思えないが、これが自分にとって必要な本で、あれはそうではない本だということはだいたいわかる。この本が本全体のネットワークのどのあたりに位置し、どのあたりと結びついているのか、あたりをつけることはできる。本の愛好者になるまで(そして今もなり続ける過程にあるのだが)、多くの時間がかかったと思う。

ゴロワーズを愛するまで

ゴロワーズにしてもそうだ。このひとつの銘柄を味わうことができるようになるには、多くの銘柄を多くの本数吸ってこなければならなかった。成人を迎えてから、とりあえず名前を聞いたことがある銘柄を端っこから順に買って試していった。セブンスターに始まり、ピース、ホープ、キャスター、マイルドセブン、マルボロ……。吸っているうちに、煙草にはコンビニで買えるようなJTの煙草と、そうではない海外のものがあるということもわかるようになってくる。はじめはほとんどどれも同じような味にしか感じられなかったが、だんだん違いにも気づくようになってくる。ピースの甘い香りが唯一無二であるということや、コールドスモーキングがうまくできたときのセブンスターの香りが格別にいいということ、あるいは、アメスピは無添加らしい味がしてゆっくり燃えていくということ(今からしたらそんなの当然のことなのに)。しばらくの間はセブンスターをずっと愛飲していた(本にしたら、10冊目の壁か100冊目かの壁の内側にいた段階だろう)。が、ある日ゴロワーズという銘柄があることを知って、煙草屋で買ってみると、これが徒ならぬうまさではないか。以来、今日までメインで吸っているのはゴロワーズである。ちなみに、ゴロワーズは昨年末に日本で終売を迎えている。インペリアル社が日本での発売を終了することを決めたのだ。手元にある残り68箱がなくなったらわたしは禁煙することになるかもしれない。なぜか。愛好には、対象の代替不可能性といったものがあるからだ。ゴロワーズでないなら、意味がないのである。

ファーブルにとっての虫は、果たして他のなにかに代替可能だっただろうか。ファーブルが地面に這いつくばり、牛糞にたかるフンコロガシの挙動を追い続けているとき、それは他のなにかの代替ではあり得ない。人間は固有の事物にとらわれ、愛好する性質をもつ生き物なのだ。彼はこのとき虫の眼で世界を見ている。

宇野常寛『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)

何に凝るにしても、時間と手間はかかる。だからこそ、愛好するのは楽しいといえる。そのような壁を感じるものこそ愛好するに値するといえる。元々中高生くらいまでのわたしは熱心な読書家ではなかった。煙草についてもまたそうである。ただ最初の1冊を読み始めること、そしてそれが終わったらその勢いのまま次の1冊に取り掛かること。これを続けていくこと。それだけが愛好への道を開く。最初の1本を吸い終わったら次の1本に火を点けて、そしてそれがすべて灰になったらまた次の1本を取り出して……チェーンスモークし続けるのさ(もちろん比喩だ)。

嫌本家/嫌煙家

本も煙草も、忌避するひとたちが一定数いる。本に関してはしばしば孤独な過程なのでそれは問題にならないが、煙草の場合はそうはいかない。煙はひとりで完結するものではなく、世界との相互作用であり、広がる煙は他のひとにも影響を与えてしまうものだからだ。問題は喫煙者に禁煙ファシズムを押し付けることではなく、喫煙者と嫌煙家との双方の自由を確保することだ。吸いたいひとが吸える自由と、吸いたくないひとが吸わなくて済む自由だ。こちらに煙が来るわけでもないのに、自分が吸いたくないし、煙草の臭いが嫌いだからといって、喫煙者の口から煙草を奪って消火するというのは端的に失礼な話だ。健康に悪いから止めろ、というのは生権力的な暴力であって、しばしばその発言者は無意識だ。自らもときに命を蕩尽するような営みに身を投じることがあるだろうに。

「客観的な」議論をしようと思えば、喫煙者と嫌煙家との両方の視点を備えていることが必要だ。喫煙者というのは、煙草を吸わない立場を知っているし、嫌煙家ではないにせよ、きれいな空気が好きなひとたちである。一方、1本の煙草の味──それは喫煙者でもあるわたしは知っていることなのだが、舌で感じる味のみならず、風と、光と、一体になるような自由の味わいがある──も知らないひとが、どうして煙草の「益」を、ましてや「害」を知っているといえるのだろうか。「客観性」に近いところで議論する準備があるのはどちらだろうか。一緒に大きな灰皿のある円卓に腰を据えて、煙草の煙を共有するところからしか、この議論はできないと思っている。要は何が言いたいか。やってみなければそのものの「味」を知ることはできないということだ。試してみないことには何かを愛好することはできないということだ。

まとめ

さて、わたしが煙草を、そしてゴロワーズを愛好しているということは十分伝わったことと思う。何かに凝るには、ある段階までは忍耐が必要である。今までの習慣を捨てて、新たな習慣を手にするまではそのようなフェーズを経なければならない。短期的な快楽、直近の有用性に基づいて、ものやことと浅い付き合いを続けるのは楽なことではあるが、一度「愛好」への道を踏み出すと、愉しくて仕方がない。もちろん、ときにはだらだら動画を漫然と流し観ることもあるが、より大きな楽しみが「愛好」にはあることを知っている。

君はたとえそれがすごく小さな事でも
何かにこったり狂ったりした事があるかい
たとえばそれがミック・ジャガーでも
アンティックの時計でも
どこかの安い バーボンのウィスキーでも
そうさなにかにこらなくてはダメだ
狂ったようにこればこるほど
君は一人の人間として
しあわせな道を歩いているだろう

かまやつひろし「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」


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