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環境を罰せよ

少年犯罪が起きる度にその「厳罰化」が騒がれるが、その人達は厳罰化した先に何を見ながら言っているのだろうか。

厳罰化で少年犯罪が減ると思っているのなら、それはどういうカラクリで減っていくと思っているのだろうか。

佐世保女子高生殺害「報道」のナゾ――なぜ被害者「実名」、加害者「匿名」なのか?
http://blogos.com/article/92572/

自分に置き換えて考えてみれば、至極簡単な話だ。

少年の頃、少年法を隅々まで把握していただろうか。そもそも少年法の存在を意識して生活していただろうか。少年たちは、法の存在で、刑の重さで、犯行に及んでいるのではない。その多くが、葛藤と衝動で及んでいる。

いくら厳罰化しても、その過程を、衝動を、葛藤を、境遇を理解しなければ、少年犯罪が無くなることなんて考えられない。

何故、その凶行に及んでしまったのか、そのプロセスを解析して、それを改善しなければ、同じことがまた別の少年の手によって行われる。

法を変えるというのなら、その少年の環境に関わった大人たちを過去に遡って取り締まるよう、変えるべきだ。

散々報道されたことだが、佐世保女子高生には小学生時代から悪しき兆候があったという。この時に手を打てなかったのか、という声も多い。確かに、この時に、何らかの手を差し伸べていれば、違ったのかもしれない。一人暮らしという選択をさせなければ、殺害できる環境は周囲に存在しなかったかもしれない。心の内を明かせる人間がいればこの女子高生は救われたかもしれない、常に人の輪の中にいれば、犯行に及び得なかったかもしれない。

起こってしまったものは仕方がない、じゃあ、次、二度と起こらなぬよう、関わった大人たちに改善を強いることが、最も必要なんじゃないか。

命の尊さを説く授業を増やしても、こういう子にとっては、鼻で笑って終わりだ。私がそうだったからよく分かる。道徳なんてクソ食らえだった。こういう子に対する接し方、ケアの仕方、その学びを大人たちに強いることが、少年法の正しい刑罰なんじゃないかと私は常々思っている。

この子だけが悪いんじゃない、この子に気づけなかった、気づこうとしなかった大人たちも、等しく罪なのだ。

(アシベズヘア/facebook

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