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同性愛は社会性だけで受け入れられるのか

自分が学生の頃はまだまだ同性愛に対しての偏見が強くあって、「ホモだ」「ホモだ」と差別的に囃し立てる風潮はかなりあった。

ただ、これが社会性によるものなのか、人間の本能的なものなのかが、どうにも判断できないでいる。

同性愛に差別的なイベント企画 同志社大がサークル処分
http://www.asahi.com/articles/ASG8Q6JQKG8QPLZB016.html

中学生の頃、同級生に「男が好きな男」がいて、まさにゲイだったのだが、そのターゲットがなんと私で、今日までの生涯を振り返っても、これほどまでに拒絶した人間はいなかった。生理的に無理というのがまさにこのことだと思った。

もし、私が小さい頃、現在のような性同一性障害などを受け入れる風潮にある環境下で育っていたのなら、この感覚は違ったものになっていたのだろうか。それがどうにも、想像できない。

同じくクラス内で嫌われる対象として、「極度のブス」がある。ただ、「極度のブス」であれ、好かれたら、好かれたことがあるのだが、悪い気はしなかった。おそらく、相手が女性だから、なのだろう。

今の学生は、同性愛に偏見がないはずだ、という意見も多いようなのだが、どうしようもない「人間の本能的な部分」で、どうしても認められない部分があるんじゃないかっていう疑問が私には拭えない。それが、今回の同志社大学の事件に繋がってしまったのではないかと思っている。

本能的に、男はライバル、競争相手であり、近づくことは、イコール、身の危険、という信号が、どうしても出てしまうのではないだろうか。どうしようも無い、受け入れられない壁が、立ちはだかっているような気がしてならない。

(アシベズヘア/facebook

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