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電車は「危ない乗り物」だったか?

今年になって電車の事故が相次いだ。例えば元住吉の事故は私の地元でもあるから、他人事とは思えなかった。

相次ぐ鉄道事故受け緊急対策会議 来月にも国交省
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2500V_V20C14A2CC0000/
ぜんぶ雪のせい……ではなかった? 東横線追突事故
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1402/21/news018.html

東京オリンピックまでに改善しないとマズイんじゃないかとか、事故の解説などは各所でやられているからここでは改めて触れないが、ふと思ったのだが、電車に対して「危ない乗り物」という意識がまるでなかった。

車は、「危ない乗り物」だと思っている。未だに車道に面した道を歩いていたら緊張するし、車に乗っていても事故のリスクは常に頭にある。車の事故に頻繁にあったことがあるとか、ニュースでいっぱい見たことがあるとか、そういうことではなくて、転落事故とか人身事故とか追突事故とか、普段生活しているだけでも車の場合は容易に想像ができる。名古屋の暴走車無差別殺人みたいなのは想像できないが、運転者側のハンドルミスや歩行者の車道への飛び出しなどは、高い確率で起こり得ることだと身体で感じているフシがある。急に目の前に飛び出されるとギョッとして身体が強張るが、実は日常的に身体が半強張りみたいな状態にあって、動物的な本能で警戒しているのかもしれないとすら思うくらい「車は怖いなあ」という感じがある。生物の世界において、自分の真横3~5メートルくらいに時速50kmくらいの物体がビュンビュン走り抜くなんて、かなりの異常現象だと思う。

電車については、そういった危機的な感覚が何故だか感じられない。もちろん駅ホームにあのスピードで乗り入れられるときは若干怖いのだが、白線の内側に居ればそこまで電車が乗り上げてくることはまずないだろうという確信があるし、線路が引かれていることで電車がどういう道筋で進むかが予め分かるから、思わぬ進路変更があるとか自分の目の前に突然現れるとか、そういう突発的な事象が起こること自体が想像に難しい。想像ができないから、それは安全だという意識に置き換わってしまっている気がする。

小さい頃、耳にタコができるくらい母親に注意されたのは、「車に気をつけなさい」であって、「電車に気をつけなさい」ではなかった。これはある種の「刷り込み」なのかもしれない。確かに塀やフェンスのある公園内でしかボール遊びは危険で出来なかったし、子供の行動範囲にも車は必ず障害として憚っていた。何度となく「車に気をつけなさい」と注意されていれば、そのときの母親の表情や声のトーンまで再現できるくらい、車を見ればその言葉が思い浮かんでくる。

でも電車は違う。

私は高校に進学するまで、ほぼ電車には乗らずに過ごした。行動範囲がそれで十分だったからだ。高校生にもなって母親から「電車に気をつけなさい」とは言われないし、小さい頃から刷り込まれてもいないから、電車が危ないものという意識がまるでなかった。そもそも、踏切を数えるほどしか見たことがない世代だ。地方ならまだ分からないが、私の学生時代には既に殆どの路線が高架に変わっていた。「電車に気をつけなさい」という環境に生きていなかったというのが一番大きいのかもしれない。

電車にゆらゆら揺られていると、その心地よさもあってか安全な乗り物だと安心してしまう自分がいる。以前、奈良方面へ向かう近鉄電車に乗っていたら、突然破裂音と共に走行中の電車の窓ガラスが割れたことがあった。私の目の前の窓ガラスだった。携帯カメラで写真を撮るという行為すら思い浮かばないほど、電車が恐ろしい物に思えて鳥肌を立てることしか私にはできなかった。それくらい、自分の中では「電車は安全な乗り物」という意識があった。

こないだの元住吉の事故の乗客も同じだったかもしれない。雪であっても、電車がまさか追突するとは思わない。一本引かれた線を、ただまっすぐ時間通りに走るだけの乗り物だ。2005年のJR福知山線脱線事故も、そういった小さい頃からの危機意識の無さが招いた事故なのかもしれない。

「電車に気をつけなさい」という「刷り込み」、どうやったらできるだろうか。

(アシベズヘア/facebook

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