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面白ければ学び成長する、面白ければ人が集まる

去年、2013年9月11日放送の「ホンマでっか!?TV」は最新教育事情がテーマだったのだが、この放送回で、改めて考えさせられる内容があった。

No.07
   先生が面白がると生徒に興奮が移り面白がる!?

生物学評論家、池田清彦氏の発言が以下だ。

面白いと思うことが大事で、学校教育でも知識を教えるって言うけど、先生が面白くなさそうに教えても子供はダメなんだよ。同じことを教えててもね、先生が面白がってっとそれが子供に移るの。相手がすごく面白そうに話してると自分もそれをすごく面白く思うようになってる(相手が面白がると自分も同じ脳の部位が興奮する)。教育の要点はそこなんだよね。先生が興味あることを面白く教えるってのが一番大事で、先生が面白くないのに文科省に言われたからこれだけ教えなきゃいけないってただ棒読みしてたら、生徒は全然。

改めて言葉にされると、本当にその通りだと思う。脳の機能的にこうなっていると言われなくても、何年も生きている内に、なんとなくこの体験はどんな人にも入ってきていると思う。面白そうにしている人がいれば、その人に興味を持つし、その人の面白がっているものに興味を持つ。面白くなさそうにしていれば、その人に興味は持たないし、近づこうとも思わない。この世はすべて、この仕組みでできていると思う。

今、安定を求める若者が増えていて、公務員だったり安定してそうな大企業だったりに就職を望んでいる。オルタナティブな人生を送ろうとしないのは、今のこの日本が、「辛さ」「苦しさ」が全面に出た社会だからだと思う。

日本のほとんどの企業は中小企業なわけだが、日本の中小企業に面白さを感じるだろうか? バブル期以降、資金繰りで必死で、経営者もその取り巻きも、金金金金業績業績業績業績で、その日を生きるのに必死だ。その必死な姿に、笑顔を見い出すことはできるだろうか? 面白いと思うものがあってそれを実現する為に必死になっている姿なら、人は惹きつけられるはずだ、そこには必死ながらも良い笑顔が必ずあるはずだからだ。

「今は厳しい時代」「歯を食いしばって」と表現するのは、良い時代を経験してきた者ばかりが言っていないだろうか。歯を食いしばって、何を待つ? 良い時代が蘇るのをただひたすら待つのか? 時代はまったく関係なくて、今、自分たちが面白がって追いかけられるものを持っているか持っていないか、ただそれだけだ。

なぜ若者は公務員を目指すか。なぜ安定を目指すか。答えは簡単だ。どこに居たって同じだと思うからだ。どこに居ても面白くない。面白さ、というものの存在を考えられない、の方が正解かもしれない。世の中に面白さが無いからだ。救いは、金、生活、安定だけ。将来に破たんが見えない程度の安定に身を潜めていれば、既に社会に存在する者たちが口にする「厳しい時代」にも耐えられる。期待が無ければダメージは少ない。

社会に出る前から若者たちには希望が無い。先人と同じように面白いものを必死に追いかけて人生を楽しく謳歌してやろうという気概が無い。先人が面白さを見せていないからだ。辛さと苦しさしか見せていないから、そこへ嫌々飛び込むという姿勢しか取れないのだ。社会が厳しいのは当然だ、だが、それを超越する面白さがある、それを示さないで何が未来か。面白さを追求する魂、昔はあったのではないか。

若者が欲しがるものの中に高級車などが無くなってもう久しい。今の若者には夢が無くなったと嘆き批判する先人たちがいるが、夢がなくなったのはこの今の世だ。やっべ~~~~~~~働くってチョ→楽しい!!! って姿を見せてくれている大人は今、どれだけいる? どれだけ減った? ちょっとでも安定して生活できるだけで幸せだよ、満足だよ、って考えに若者がなってしまうのは、よく分かる。

環境評論家 武田邦彦
「自由にやる職業が一番人気がないと、一か八かの職業が。安定した職業が人気があるなんちゅう社会はダメですよ」

私の父親は非常に貧乏だ(60歳を過ぎてマクドナルドにアルバイトを申し込むくらいだ)。でも常に笑顔だ。自分が面白いと思う仕事しか引き受けないからだ。エンジニアなのだが、面白いと思えないものを作っても良いものは作れない。面白いと思えない時点でやる意味が無い。そう語る。私は時折、これが正しい社会なんじゃないかって思うことがある。

少なくとも、父親の姿を見て、貧乏が不幸せだと感じることは無い。自分が面白いと思える社会に身を置けているかどうか。それが何よりも羨ましい。自分でその面白い社会を作り出せていることが。

学校教育の話だが、学校は社会の縮図というのは昔から言い過ぎだと思っているのだが、社会に希望を見い出せるかどうかは、やはり学校教育に掛かっているのだとは思う。教師が興味の無いことを棒読みで教えている、なんて私が学生の頃もザラだった。ずっと背を向けて一人で授業を行う教師。そんな教師も一人や二人じゃない。授業中の授業に関係する話しか答えてくれない教師、生徒が興味を持った他のことにはまったく耳を貸してくれない。決められたことをとにかくこなす、それで必死。それが大人。それが社会。そう捉えれば、子供に希望はなくなっていく。

私個人的な印象として、特に多かったのが、技術担当の教師は授業を面白がってやっていた。やはりものを作ることが好きな人が多かったからじゃないかと思う。教師が面白そうに実演してみせれば、やはりそれは自分も自分もとすごくやりたくなった。ちょっとアイデアを出してイレギュラーなことをやってみせても、教師はそれを面白がって褒めてくれる。より面白くなって楽しくなって、もっと面白いものが作りたいから、勉強を自主的に始める。これが池田氏の言うことなわけだ。

ところで、私が大学に入ってまず感じたのは、講師陣が研究者だということだった。生徒の話にすごく興味を持って注目する。それがどんな拙い質問や回答でも、興味を持って専攻している研究だからだろう、後ろ向きな姿勢がまったく見られない。すごく難しい内容なのだが、笑顔で講義している姿を見せつけられると、やはり興味を持ってしまう。それが大学の印象だった、小中高の教師どもとは全然違ったのだ。

この頃から考え方が整理されていった。言葉にはまだなっていなかったかもしれないが、結局は、面白いかどうか。目指すべきは。面白くないことを当たり前と思ってはいけない。これが当たり前なら世はおかしい。間違っている。洗脳されてはいけない。

さて、池田氏の発言の内容で教育現場がこれから変わっていくなら良いが、それは新しい教師には希望が持てるが、既に寄生している教師たちには希望が持てない。教師は現場に出たら、教育方法を自ら進んで学習していなければ、大学で学んだ以上のことができないだろう。そんな教師ばかりではないのか? いくら教育の研究をしても、その瞬間に大学に居た教師にしか身につかなくて、それ以外の大多数の教師は、古いやり方のままだ。これではいつまで経っても教育は正常化されない。これは私はもう無理だと思っている。学校教育を諦めるしかない。

だから後は、社会が希望を示すしかない。それはできるはずだ。面白いものは本当はあるはずだ。面白くないのが当たり前だと思っている先人たちは無視して、新しい世代の者たちで奮起しよう。厳しい厳しいと口から垂れ流すだけの者たちは無視して、楽しい新しい社会を一から自分たちで作るのだ。面白ければ、人は必ず集まって、それがスタンダードになるはずだ。険しい厳しい顔をしたら負けにする、常に面白がるっていうのを課す社会があっても、面白いかもしれない。

(アシベズヘア/facebook

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