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若者「才能豊かに生きる」 vs ジジイ「堅実に生きる」

私がまだ大学を辞めたばかりで働きに出て間もない頃、既に引退した60代のジジイと口論になった。口論というか、意見の交換が当初は目的だったのだが、途中から私側に30代の美容室経営者とか主婦とかサラリーマンとかが味方についてしまったので、ジジイを若者が寄って集って苛めているような構図になってしまったのだ。

お互いの主張はこうだった。

■  私  (20歳代前半会社員・当時)
「ゆとり教育には大賛成。詰め込み教育でこれまでの家庭も顧みない会社会社な幅の狭い人間を作り上げる教育よりも、小さい頃から色々な可能性に触れさせて、感情豊かでグローバルな視点を持てる心に余裕のある新しい未来に向けた人材に育てるべき。心に余裕があるというのは様々な選択が子供の頃から可能だということ。一流大学を出て一流企業に就職することが幸せではないということを学ばせるべき。高度成長期と同じ教育法を実施してももう高度成長はしないんだから、教育は今、転換すべきなんだ!」

■ ジジイ (60歳代後半隠居・当時)
「色々なことをちょっとずつバイキングみたいにつまんでも、何も身につかない。そんな教育を義務教育で実施したら、日本はおかしくなる。何もまともにできない人間が量産されて、社会は崩壊する。とにかく、義務教育では、社会に出て一人前として通用する技術を、徹底的に教え込むべき。そうでなければ、義務教育の価値が無くなる。確かに今の中途半端な英語教育などは、読み書きも中途半端で会話なんか一切できないんだから、改善の余地はもちろんある。しかしこの改善の方向は、社会に出て困らない最低限の技術を習得する為に特化すべきもの。ゆとり教育で多才になるなんてのは義務教育で求めては絶対に駄目。最低限一人で生きられる技術を習得してからにしろ。働かない、いや、働く技術のない家に引き籠る若者が増えるだけだ。義務教育を終えたら、好きにしたらいい」

私の主張の発端は、その他大勢に含まれる会社員という道に進むしかなかった、己への才能の無さに憤慨したからだった。金があれば、小さい頃からゴルフやテニスなどのスポーツに触れられて、爆発的に大物になったかもしれないし、ピアノやバイオリンを習っていたらなんて考えても同じだし、結局、小さい頃の選択肢の幅が広いか狭いかで、一生が決まってしまうというのが、情けなくて、また、とても悔しかったのだ。

占いを見れば、「大器晩成」と書いてある。いつだよ! と思うばかり。若くして成功している人らが何万といる。違いは何か? 境遇。

これに賛同してくれた人は、多かったし、若い、日々同じことの繰り返しで過ごしている人が多かった。みんな、小さい頃に色々なことが体験できていればな、という想いが爆発していた。

しかし、あれから7、8年が経過して、ふと思う。ジジイの言っていることがなんとなく分かるようになってきた。ニュースを見ていても、最近のTwitterでのおバカ写真投稿でも、実際にコミュニケートして触れた今の世代の若者たちも、考え方がひどくチープに思える。一人の人間として自分の力で生きようという考えの下に行動していないように感じてならない。

詰め込み教育というのは、これくらいできなければ社会でなんて通用しねえよボケカス! と強い精神を叩き込まれていたのと同じだったのかもしれない。社会の方が、もっとエグイ競争があるぞ、って。ジジイの言っていた最低限の人間として生きる為の技術というのが、忍耐や努力、倫理のことだったとしたら、確かにこれは義務教育で教え込まなければ、もう教わる機会は無くなるだろう。

多才な人間を育てるには、それを超える才能を持った人間にしか、絶対に無理だ。教育者は、ただの凡な人間である。凡な人間の生き方、堅実な生き方しか、教育機関では教えられない。これが現実だとよく分かった。

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