見出し画像

人間は知っていることに反応する

人間は知らないことよりも知っていることに反応するそうである。そう言われると、自分の反応、他者の反応をみてもうなずける。

日本の古典芸能があまり見向きされないのは(ここ10年はそうでもないみたいだけど)、兎にも角にもコレだと思う。思った。

例えば、パガニーニが…ショパンが…とか、ゴーギャンが…シーレが…と言われて、日本の人々はそんなに首をかしげるだろうか?

「よくわからないけど、あのへんの話だよね?」くらいの感覚にはなれる。

一方、日本の古典に戻るとどうか。

細川忠興が…酒井抱一が…とか、妹背山婦女庭訓が…鷺娘が…と言われて、みんなどこまで反応できるだろう。

酒井抱一は江戸時代の画家で…っていう時点でみんなお手上げだ。多少興味ある人でも、北斎、写楽、広重、光琳くらいが席の山だ。

ちなみに好色一代男が…と言われて反応するのは唯のスケベ心であり、それが井原西鶴の作で、彼が好色一代女も書いているなんて事は知らない。ましてやそれが「浮世草子」という系統に属する作品だなんて事実は、葉っぱの下の妖精のようなものだ。

とっかかりが無い。どこにも無い。だから、何かを知っても点でしかないのだ。それが、つまらない理由だ。新しい知識は、隣り合う何かと比較できないと面白くないのだ。

日本の伝統芸能や古典芸術が「何なのかよくわからない」と思われがちな理由の核心は、これだと思う。

「何なのかわからない」のは、実はどこも同じである。どう考えても、白鳥の湖よりは春興鏡獅子の方がわかりやすい。オペラだって普通の人はサッパリわからない。ましてカート・コバーンが潰れた声で潰れた英語を絶叫で歌ったり、ジミ・ヘンドリクスがギターのネックをペニスに見立てて上下にさすりながらアンプの爆音でオナニーして演奏中に射精するところをジミ自身がすすんで客に見せ付けていても、それらを最高にかっこいい伝説的なショーだと感じられるのは、聴き手の嗜好と慣れの問題で、かつそういう文脈がジミの周囲にちゃんとあるからだ。普通に考えたら唯のトチ狂った人の訳のわからない汚ならしいパフォーマンスにしか見えない。でもロック誕生からわずか15年で文脈がここまで深化したからこその表現である。前後のつながりがちゃんとあるのだ。ザ・フーが演奏中にバスドラを爆破しなければ、ジミは射精まではいけなかったはずだ。

人は知っていることに反応できる。

だから、知っている事をやるりながら、新しい事を教えてあげればいいのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?