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父とアバター®

レン生後三ヶ月の頃に、突然父が倒れました。

夕食のお肉を喉に詰まらせて…

私は大阪のアバターオフィスで連絡をもらいました。数年前にも酔っ払ってトイレで転け、救急搬送された経験があったので、それぐらいのことと受け取ってました。

それでも、連絡もらってすぐに帰宅しました。

家には、レンのベビーベッドの横に母
どうも様子がおかしい

大急ぎで搬送先の病院へ

妹から見せられた書類、聞いた状況から
ただごとではない。

自発呼吸は戻っているが意識はない
ICUにはいったまま

私は3日後には渡米する予定でした。
もちろん家族からは、取りやめてくれるよね。
こんな一大事に私がいないことが考えられない。
私の中では、何で?行くって決めてたのに
ココで行くのは、わがままじゃないか?
来年でも良いんじゃないか?
行かないでここに居て何ができる?
グルグル頭の中がパニック状態

その日、アバターマスター仲間と会う約束してたので、ワークのコーチをお願いしました。

梅田の地下で。

かなり時間を要したけれど、源になり
望む現実を創造して帰宅

翌日の朝、家族と顔を合わせると
私が渡米するよ前提で話が進んでいる。

2日後、私は渡米しました。

向こうでの滞在は7日間
アバター®プロフェッショナルコースを受講し、
とにかく父のことを扱い、夜は寝ないで日本と連絡をとる。

そして、帰国してから数週間後父は他界しました。

その年のプロフェッショナルコースは、ハリーから重大な発表がありました。

【慈しみのプロジェクト】です。

世界で100万人に慈しみカードを配り、世界に慈しみを増やす。その発表の会場に父もいる。そんな感じがしていました。

帰国してからは毎日、父のいる病院へ家族みんなで向い、父のそばで過ごし、最後は家族五人で笑いながらおしゃべりしてる中、息を引き取りました。

結果的にICUの中でずっと過ごすことになり、
深刻な空気の中、父のスペースだけは
深刻さのない慈しみのスペースを意図しました。

私にできる最大の貢献は、
父の経験も家族の経験も私の経験も
全てを味わい愛でること

それだけを意図して看取りました。

誰も我慢せず、誰ひとり家族が欠けることなく
最期を共に過ごせた。

レンの存在が母を落胆させることなく
使命を持って過ごす糧になっていた。

子供の存在って凄いなぁ

父にアバターを伝えられなかったけれど
その時の私に出来ることはやりきった。


アバターやっててよかった。

2009年11月のことです。



ここでの内容は、私個人の意見です。
アバター®はスターズエッジ社の登録商標です。全ての権利は同社が保有しています。

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