人工内耳をつけないと決めてる私

こんばんは。

春分の日も過ぎましたね。

ここから昼の長さが長くなっていきますね。
自然って本当にすごいなぁと思います。


春分の日って

「生きるために最も重要な農耕を始める日」として

古来から大切にされてきた日、とのことです。


私にとって

「私自身を生きるために」

何を大切にする???

今、また見直しの時期にきているような感じです。


さてさて。

今日は

「人工内耳をつけないと決めている私」

についてお話しようかな。


数年前から主治医に人工内耳を勧められています。

だんだんと難聴が進行していき、現在両耳平均110~120dB、

もう聾のような感じな私。

主治医としては補聴器の有効性があるうちに、

つまり、

脳が音を覚えているうちに人工内耳をしたいのです。

人工内耳って、内耳に機械を埋め込んだら終わり、

ではありません。

音の信号を脳に送るのですが、
その音を覚えるためのリハビリもあります。

人工内耳を入れたらすぐに聞こえるものではありません。


補聴器の有効性に限界が近づいてきているなぁ・・・

と感じることは増えています🥺


補聴器が全く使えない日が来たら・・・

と思うと、固まることもあります。ぴきーん。


ただ、そんな日が来るとしても・・・

人工内耳は入れない、と決めています。


主治医は「なんで??」と聞きます。

私も「なんで??」と聞きます。


主治医 「だって聞こえていた方がいいでしょ?コミュニケーションも大変だろうし」

私 「ん~・・・でもいいかな・・・」


「聴こえなくなったら大変でしょう」


いかにも私のためのように言っているけれど・・・


それって、

「聴こえる人のようになれるように、
もっと頑張れ」


私にそう言っているようなもの。

今度は全身麻酔かけて?
体にメスを入れて??

聴こえる人にようにコミュニケーション取れるように?

私はどこまで「聴こえる人のように」 
ならねばいけないのだろう。


聴こえない私ではだめなのだろうか。


ここまでね。

本当に頑張ってきた。

聴者の方たちに少しでも迷惑をかけないように

自分でいろいろ対処できるように

コミュニケーションで迷惑をかけないように

「なんでマイノリティーに合わせないといけないの?」と言われ

「マイノリティーが頑張りなさいよ」と言われ


ねぇ。知っていた?

私たち、生まれた時からずぅっとずぅっと頑張ってきているんだよ。


もう、このままの自分で生きたい。

「聴こえる人のようになる」ために頑張るのではなくて、

このままの自分で生きたい。


私は「聴こえない人」です。




「聴こえる人」のように振る舞うことで
褒められ、

「聴こえる人」のように振る舞うことで
親に喜ばれ、


でも私は嬉しくなかった。

でも周りは嬉しそうだから、それにニコニコ応えてきた。



人工内耳を否定しているのではないんです。

私も今は、補聴の有効性があるから補聴器をつけていますし。


でも、補聴器も人工内耳も

日々の生活を豊かにするツール、道具なだけであって、

「聴こえる人のように」なることを目的としないでほしいのです。



聴者にとって、
聴者側の親にとって、

聴こえないことが幸せ

なんてわかるはずがないことは理解できます。

聴こえないより
聴こえた方がいい

そう思うのはごく自然な反応ということも分かる。


でも「聴こえない私」をまるごと認めてほしいのです。


人工内耳が発達したことで

より私たちは

「聴こえる人のように」

なることを強いられてしまっている部分があります。

どう頑張っても「聴こえる人」になれないのに。


若い子たちと話すと

「聴こえる人のように」

それに苦しんでいる子がたくさんいます。

聴覚障害者としてのアイデンティティがうまく育めず、

自己肯定感が弱いまま、という子もいます。



どうか、

「聴こえない自分」を認める、

「聴こえない自分」が許される、

そんな世の中になりますように。

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