忠臣蔵 内匠頭主従の御赦免願書
12月14日は四十七士討ち入りの日。赤穂では義士祭が行われる。
今は義士であるが、江戸時代は浪士であった。江戸幕府は四十七士は法を犯した者として切腹を命じたからである。
明治初年、旗本浅野家は内匠頭長矩主従の罪科御赦免と祭祀を公然と行うことの許可を政府に願い出る。写真は願書の案文。
浅野赤穂藩には二つの分家があった。一つは若狭野三千石、もう一つは家原三千石。初代藩主浅野長直の孫(養子)に始まり、赤穂藩断絶後も旗本として幕末まで存続した。
浅野内匠頭が刃傷に及び赤穂藩が改易されたとき、赤穂藩江戸屋敷の文書は若狭野浅野家江戸屋敷に運ばれた。文書は江戸時代を通じて書き足され、幕末に若狭野陣屋に運ばれた。浅野家が陣屋を去るにあたり、文書は三木家の蔵に預けられたが、十年前に発見され龍野歴史資料館に収められた。
明治初年の「罪科御赦免公然霊魂祭祀仕度願書案文」からわかるように、江戸時代は四十七士を公然と祭祀することができなかった。二つの旗本浅野家が密やかに内匠頭主従の祭祀を続けていたのである。
仮名手本忠臣蔵が人気を博したように、民間においては赤穂浪士の祭りが始まっており、「女忠臣蔵」のような版画も作られていた。
時代が移り、明治天皇が忠義の士と認めたことによって四十七士は忠義の士となり、明治中頃から赤穂をはじめ各地で義士祭が行われるようになる。
若狭野浅野家の所領は赤穂藩の領内にあったので、初期の陣屋は小さなものであった。赤穂藩断絶後、所領統治のために若狭野陣屋の拡張が続き、江戸時代後期の藩札発行にあたり札座が建築された。
明治30年代、浅野家が若狭野陣屋を去るにあたり、御殿屋敷等は取り壊されたが、札座は庵寺として使用されたため現地に存続した。
若狭野陣屋の敷地は完全に残り、御殿屋敷等があった北半分は浅野家から地域に寄贈され、神社等になっている。左は、陣屋の守護神であった稲荷神社。
若狭野陣屋の南東部に残る札座。江戸時代後期、藩札発行の役所として建てられた。この建物は歴史的価値を認められないまま、老朽化が進み解体の危機に瀕している。
私たち浅野陣屋札座保存ネットワークが手を引くと直ちに解体されてしまう可能性が高い。私たちは、兵庫県の古民家再生事業に応募してヘリテージマネージャーに再生プランを作成していただいたが、地元自治体が助成しないため、県の助成を受けることができない。
私たちが全額負担するか、解体されてしまうかの瀬戸際にある。相生市の文化財保護審議会は「価値がない」と決定、赤穂市は「市外のため」手を出すことができない。
若狭野陣屋全景。白の円が札座。黄色の円が御殿屋敷跡。二つの円の周囲が赤穂藩断絶後の若狭野陣屋。青の円は赤穂藩があった頃の陣屋。
旗本陣屋は小規模で保存が遅れており、破壊されてしまったものが多い。敷地が完全に残り、札座という建築物まで現存しているのに歴史的価値がないのだろうか?
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