「優劣」という考え方

人の社会では時に嫌でも優劣を付けなければいけない事がたくさんある。

他者の評価により優劣が付けられた時、
優れている者は劣っていると評価された者に対して
どのような考え方をもち共存していくのか?
同じような能力を持っていたとしても優劣を付けられた時、
人は平等という考え方に対してどう向き合っていくのか?

私は自分が劣っている存在だと自覚しているが故にそんな事を考えるのかもしれない。優秀な者はそんなちっぽけな事を考えるより別な事を考えているのかもしれないが。。。

優秀な者は劣っている者を見下し馬鹿にしている事が多い
と私は感じてしまう。
私が実際に体験した事があるからそう思うようになったのだ。

私は運動嫌いでどのスポーツもダメだが球技は特に苦手。
チームを組んでも貢献する事はほぼ無いので、ある意味お荷物だろう。
授業の一環とはいえ勝ち負けという優劣が存在する以上、
劣ったものばかり集めてしまうと負けてしまうのは誰にでも分かる。
どんなに下手だとしても仲間外れという訳にはいかないので、
一応チームのメンバーには入れてもらえるのだがある意味心苦しかった。

バレーボールでサーブを打つ時だと
下手な私はサーブですら上手く出来ない事が多くある。
あらぬ所にボールが飛んでいく様を笑う者もいれば、
気にしなくて良いよという者もいて三者三様だ。
私が気を悪くしないようにと気遣っている者もいたが、
結局下手な者がいるチームは負けてしまう。
仲の悪い人同士だと負けた事を馬鹿にして笑っていたが、
私としては申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
少なくとも私より優れている者がいれば勝てたかもしれないからだ。

劣っている事をあれこれ言われるのは傷付いてしまうが、
どうにもならないのでその部分は諦めていた。

だが私と同じような能力を持っていても
さほど悪い扱いを受けずに済んでいた人もいたので、
学生時代から平等なんてものは無いのだろうなと肌で感じていた。

学生のように「学生」というくくりの中でもこれなのだから
大人になれば「役職」や「職種」という
くくりによって大きく優劣を付けられるようになるだろう。
実際に職種差別や役職差別もある。。。

いくら社会が「平等な社会を」と声高に叫んだとしても
実際受ける扱いに優劣が大きく存在しているのだから、
それは戯言だと私は感じている。

どうあがいても優劣を付けなければいけない場面も多く存在するので、
一概に優劣を付ける事が悪い事だとは思っていない。

ただ、その優劣という考え方の中に
人を蔑んだり見下すというような考え方が出てくる
人の心に問題があるのだろうと私は思っている。

実力、才能どちらでも構わないが偶然人様より優れていた。
その結果優秀とされ、良い待遇を受ける事が出来る。
反対に才能が無く、努力をしても報われなかった人たちは
結果劣っているとされ、時に酷い待遇を受ける。
それは事実であり、
これからの社会でも変わることは無いだろう。

ならば劣っていると感じている私から
優秀だとされている人たちに望んでいる事が1つある。

それは
劣っている者でも暮らしやすいような社会や待遇を作り、
劣っている者が自分の心を傷付けてしまわないような
器の大きさを持って接して欲しいと私は願う。


劣っていると見下され馬鹿にされた事が多い私からすれば、
優秀だと認められ、上に立つ者ならば優秀である事を示して欲しい、
と思っているのだ。

子どもを含め学生にこんな事を言うのは酷かもしれないが、
子どもの時から優劣は付けられる。
それはどうやっても変えることが出来ない事実。
だからこそ子どもの時にほんの少しでも良いから、
上に立つような人はそうなれなかった人の気持ちを察して
温かく接して欲しいと思うのだ。

全員平等な能力を持つ事は不可能だし、
もしそうなったとしても平等になる事は無いと思う。
優劣は必ず付いてくるだろう。

でも
その優劣を感じさせないような社会、
優劣を感じさせない心の接し方、
それは可能な事だと信じたい。



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