わたし自伝②
ご拝読ありがとうございます。
わたし自伝①からの続編になります。
もしよろしければ①もぜひご覧下さい。
そうこうして(①参照)、高一の秋に両親が離婚することに。
しかし過去の出来事からも察するに、やはりスムーズにいくはずもなく調停で話し合うことになったそうです。
ちなみにですが、学校での苗字はキリよく二年になるタイミングでかえましょう、ということになりました。
ここでひとつ驚いたこと。
高校生のわたしは、両親どちらの元で育ててもらうかを決める権利がわたし自身にあったのです。
お父さんのこと好きだし、でもお母さんも好きだし、地元の友達と会えなくなるのつらいし、でもお父さんはとてもこわい。お母さんもこわいけどそれよりもこわい。
正直そんなかんじでした。
ただ、こうやって出てきてお母さんと一緒じゃないパターンを想像していませんでした。
そんなわけである日わたしは母に連れられ霞ヶ関に。裁判所に行ったことまでは覚えてるけど、その中がどんなだったとか、どこで何を話したとかは実は全然覚えてないんです。
緊張してたことだけは覚えてる。
こうして無事親権は母へと渡り、新しい生活へとうつり変わっていったのでした。
今でこそ親権は母親優位らしいですが、当時はまだ収入で親権を勝ち取れることが多く、わたしたちはギリギリの戦いだったようです。
しかしここではまだ話が終わりません。
父や祖母の執念はすごいものでした。
わたしが高校二年になったある日の下校時、校門前になんと父の姿があったのです…!
慰謝料養育費ゼロでの調停離婚をしているため、父は子供達と接見禁止。母からは「もしお父さんが突然現れたら警察に連絡しなさい」と言われていました。
でもさすがに警察に通報することは出来ず、母にメール(LINEじゃないよ、メールね)だけ送り、裏門から遠回りルートで駅へ向かうことに。
なるべく大通りを避けるルートで駅に向かう途中、父の車に追い抜かされたことに気づいたわたしは駅の近くで時間を潰し、父がいないことを確かめてから駅入口へと向かいました。
あのとき不安でたまらなかったわたしと一緒に校内から電車に乗るまで付き合ってくれた友達のことは今でも神様だと思っています…
こうして父に連れ戻されることからは免れたわたし。しかし、次なる刺客はすぐに訪れました。
突然、引っ越し先のアパートに届いたダンボール。
なんと祖母から届いたものでした。
またしても新居を調べあげてきたのです。
中には手紙と、なんだか腐りかけの野菜たち。
何回か届いたダンボールの中身は毎回そんなかんじでした。
手紙には概ねこう書かれていました。
「母と麻美はもういい。でも妹は自分の意思でそこに行ったわけじゃない。妹はうちの跡取りとして返せ」
ああ…
そういう理由だったのか…
悲しい気持ちと
解放された気持ちと
やっぱり悲しい気持ち
そう感じました。
住所がバレたことや、母がとにかく慌てて部屋を借りたため駅チカの高い物件だったこともあり、わたしたちは引っ越しをすることに。
今度は駅から少し離れたアパート。
詳しくは覚えていませんが、弁護士を通じてなのか、はたまた追えなかったのか、この頃には祖母からの荷物も届かなくなりました。
母は「こんなの送ってくるならせめて現金くらいいれてくれたらいいのにね」と言っていました笑
孫がかわいくて送ってきてるわけじゃなかったから、それは致し方ないことでしたね。
*わたしの結婚*
人の目を気にして育ったわたしは、異性からもどう思われてるか、嫌われてないか、そんなことを気にする肝っ玉の小さい女に育っていました。
浮気されても離れられないし、必要とされたら尽くしたい。でも負けず嫌いだし人を信用してないから悩みを話したりもできない。
『愛されるより愛したい』って名曲ですよね。
アルバイト先🍔で知り合った二歳年上の大学生とは2年半くらい付き合ったかな…
えなりかずきさんと瑛太さんを足して2で割ったようなお顔立ちをされていました。
すげーーーーー浮気野郎でした😂
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