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奈良はひとの寄す処

修二会の報告ツイートを眺めています。
今時間がなさすぎて、今年はそもそもお参りに行けそうになかったのですが(写真は去年の今日です)

また来年がある、と信じられることって、改めて考えると凄いことですよね。毎年、祈ってきた人たちがいて、
それを支える人たちがいて、
その一端を垣間見せてもらえる。
(勝手にもらいにいっているだけなのですけれども)

そう信じられるところが奈良のすごさの一つだとわたしは思っています。

この土地で1200年も1300年も昔から続いてきていること、
それを私も信じたい。
来年もあるし再来年もあるし私が死んでもずっとあるだろう、と信じられること、ものがたくさんある。

よすが、なんですよね。寄す処 。

奈良には身や心のよりどころとなることがたくさんある。
それを実感したいから古事記や日本書紀をはじめとした歴史書を読むし、
社寺の由緒や、つなげていく方たちのお話を伺いたいし、
社寺の行事に参列させていただけるなら、その場に立ち会いたい。
法要なども含めて、続いてきたことの意味合いを教えていただけるのであれば知りたいし、
私に伝えられる範囲であれば伝えていきたい。

それが確実に今の私に、私がしていることに繋がっていると信じられる。
一見歴史とは全く関係がないお店にしても、取り組みにしてもイベントにしても、実は何かつながっていることがあって、そこを大切にしてきたから今の奈良があって。

奈良が好きと言っても、歴史があまり好きじゃない方たちもいて、
それはそれでいいと思うんです。ただ歴史を大切にしてきた人たちもいるし、それがあるからあなたが好きな奈良があるって知っててほしい。
鹿だって、信仰から守られてきたものです。
基づいていることがあること、
それに惹かれて来る人たちがいることを
知ってもらいたいです。

わたしが奈良を好きなのは
歴史が好きだからと思われがちなんですが、
歴史だけじゃなくて、
奈良が人々のよすがだからだと、信じられるとこだからだと思えるからだ。

ようやく奈良の何が好きなのかを言語化できるようになってきたかもしれない。


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