やおい穴からおっこちて

 幼い日、突如現れたお姉さんに手を引かれ、足を踏み入れた秘密の扉の奥には、穴があった。とても深い深いところにつながっている、穴が。

 それははじめからそのようなものとしてそこにあり、僕はそれがじっさいなんであるかについてほとんど考えることもなかった。あからさまな単語はいくつも転がっていた。アナル。肛門。尻の穴。けれど、それはただの言葉にすぎなかった。そこに描かれていたのはどこまでも抽象的な穴そのものだった。洗浄や拡張といった、肛門及び直腸を性行為に使用することに伴う手続きがどれほど子細に描かれたとしても、いざ挿入されるその瞬間、穴はほかの何物でもない穴そのものに純化されるのだった。それは肉体を超えて、受という存在そのものへの入り口として開いていた。ぽっかりと。

 それがアナルというものなのだと、思っていた時期がある。英語のanalは形容詞だけど、日本語ではもっぱら名詞的に用いられ、男女問わずセックスにおける男性器の挿入対象という文脈でのみ登場するから。肛門がなにかしらの手続きを経て、男性器を受け入れるためのアナルという器官に変化する。そこで受は望むと望まざるとに関わらず、なにか魂的なモノに触れられてしまう。多少無理矢理だったとしても感じてしまうのはそれがアナルだからだ。そこに入り込まれることは、まるごとぜんぶを奪われることだからだ。今にして思えば、それは言葉こそ違えど、所謂「やおい穴」に限りなく近いものではなかったか。

 その後、素晴らしきインターネッツがもたらす「リアルな」情報によって知識はどんどん上書きされ、アナルはそのまま肛門であり、セックスによってなんらの器質的な変化を生じえないと理解した今でも、純化された〝穴〟のイメージは僕の頭を離れることがない。勿論「やおい穴」なる穴がアナルとは独立に存在していると思っているわけではない。仮にそんなものが会陰に開いていたとしたらそれはただのふたなりであり、女性器のイミテーションであって、純粋な穴には程遠いものになってしまうだろう。

 そもそも僕はまともな開発なしですんなり入ってしまうような穴よりも、現実のアナルに即した(ような気がする)洗浄やら拡張やらゴムやらのめんどくさい描写を好む。せっかく想いが通じたのにいざ事に及んだら挿らないとか。そのうちに攻が萎えちゃうとか。もちろん受はそう簡単に中でイけない。攻が早々にフィニッシュしてしまって申し訳なさそうに続きを手で、なんていうのもいい。身体と心が必ずしも噛み合わないのがBLの醍醐味じゃないのかとさえ思っている。肉体と精神が渾然一体となったオールインワン・ホールなんて、ちょっとお手軽に過ぎてつまらない。そう思っているのに。

 振り返るとそこにはやっぱり穴があって、今も僕を誘い込もうとしている。とても深い深いところに。ひょっとするともうとっくに落ちているのかもしれない。

 それは「心の穴」なのだ、という解釈を試みたことはある。アナルの上位互換なのか下位互換なのかは知らないが、とにかく肉体とは独立に、精神的な結び付きをなすための穴。しかしいざ身体と切り離してみると、途端に穴は穴である意味を失い、好きだとか愛だとかの表層的な言葉に呑まれて消えていく。言葉では、概念では、僕らはそこに到達できない。深い深いところにある、まるごと全部に触れられる場所に。

 身体だけでは駄目だけど、身体がなくても駄目。すべてが渾然一体となった中を貫く、扉の向こうの深い穴。それがいったいなんなのか。僕には今でもよく、わからない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?