駄メガネくんのこと

 のび太はメガネに入りません、と言い続けて幾星霜か。

 自他共に認めるハイスペックメガネ原理主義の僕だが、最近どうもその根幹が揺らいでいる気がする。ドジで間抜けで一芸に秀でているわけでもなく、唯一長所と呼べるのは憎めないことくらい。そんなハイスペックの真逆をいく「駄メガネくん」たちが、以前の僕なら「ただの眼鏡を掛けている人だ、メガネ男子じゃない」と切り捨てていたはずの彼らが、近ごろはどうにも愛おしくてたまらないのだ。

 もちろんギャグメガネに長い長い歴史があることは承知している。駄メガネなんて亜流だというつもりもない。しかしながら萌えとは極めて個人的な感情であり、その意味で僕にとってメガネとはまずハイスペックの象徴でなければならなかった。メガネ男子の眼鏡というのは、彼らが人並み外れたその知性ゆえに抱えることになった社会とのギャップ、壁が現出したものであるべきなのだ。そのギャップにこそメガネ男子の本質が宿っていると言っていい。だからたとえ残念メガネであるにしても、関根くん(河内遥「関根くんの恋」)みたいに、有り余る能力の使いどころを致命的に間違えた故の残念さみたいなものが求められる。一方で「やることなすこと全部だめ、普通にだめ」なのび太や勉三さんの眼鏡に対しては「まあ広義のメガネキャラには入れてあげてもいいかもしんないけど萌え対象としてのメガネ男子ではありえないよね」というかなり冷淡な態度を貫いてきたのであります。ハイスペックに非ずんばメガネに非ず。

 そんな「駄メガネくん」が、どういうわけか僕の琴線に触れてくるようになったのは昨年のこと。今やメガネ男子界を代表するキャラの一人となった「あまちゃん」のミズタクこと、水口琢磨との出会いがきっかけだった。メガネに相応しい冷血さでアメ女を仕切る太巻Pとは対照的な冴えないマネージャー、努力は認めるにしてもいかんせん空回り、というミズタクのキャラは、客観的にはどう考えても駄メガネだと思う。にもかかわらず「低スペックが眼鏡だけ掛けたってメガネ男子とは認めませんよ、ふん」といういつもの冷ややかな感情が湧いてこない。それどころか、周囲の人間に振り回されてじたばたする姿を「ちょっと可愛い」とか思っちゃったんですねまあ普通に萌えたわ。ひょっとしてこれが※ただしイケメンに限るというやつなのかとうろたえたりもしたが、同じイケメンでもファッションメガネにはさざ波すら起きないからどうも違う。なぜミズタクだけが特別なのか。いくら考えても納得のいく形で言語化することができない。「どこにどうして萌えているのか説明できない」という生まれて初めての経験は、僕をひどく困惑させた。

 そうこうしているうちに気がつけば右を見ても左を見ても、世は駄メガネブームである。その傾向がもっともよく現れているのがテレビ朝日のスーパーヒーロータイム。「烈車戦隊トッキュウジャー」では、クールで切れ者でちょっとひねたところのあるヒカリではなく、どちらかというと気弱でおっちょこちょいのトカッチがメガネ担当。ぶっといセルフレームの眼鏡は要所要所でズレて笑いどころを提供する。

 「仮面ライダー鎧武」にはさらに完成された駄メガネキャラが登場する。人類の未来のため自分を殺して生きてきた貴虎兄さん。ほむほむもびっくりの見事な闇堕ちを披露したミッチ。典型的なマッドサイエンティスト・プロフェッサー凌馬。いずれ劣らぬ知性と狂気を兼ね備えた3人を押しのけて堂々メガネキャラの座に就いているのは、同僚ライダーに「お前は何したって格好つかねえだろ」と言われてしまう城之内である。参謀キャラを気取ってるくせに実力が伴わず、やることなすこと上手くいかないあたり、今までの僕なら痛々しくて見るに堪えなかったような気がするんだけど。

 けど。

 言うまでもないことだが、これがことごとく萌えた。相変わらずこれまでの僕の萌え理論ではうまく説明をつけることはできないまま。彼らの眼鏡がズレるたびに、為す術もなく萌え転がった。ここに至って僕は、自身の中に「駄メガネレセプター(受容体)」が新たに形成されつつあることを認めねばならなかった。ドジで間抜けで一芸に秀でているわけでもない低スペック駄メガネくんたちを、特に理由もなく愛でる感性が。

 気が付けばあれほど馬鹿にしていたのび太にもどこか温かい眼差しを注ぐ自分がいる。ひょっとしてこれが…大人になったということなのか。まもなく17歳168ヶ月だけど。

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