効能

 ホットケーキを作ろうと思い立って冷蔵庫を覗いた直後、「あ」とも「ん」ともつかぬ音が喉の奥から漏れた。
 どうやら十日ほど前、元同居人が買ってきたのは鶏卵ではなく「ゆめたまご」だったらしい。「ゆめたまご」というのは、それを食べると「幸福な夢」をみることができるという代物である。分かりやすいネーミングだ。元々は不眠を解消するために開発された医療薬(いわゆる睡眠導入剤というやつである)の一種であったが、メディアに取り上げられてからというもの老若男女の支持を受け一世を風靡した大ヒット商品である。お値段は一パック四個入りで三九八円。最近ではコンビニでも手軽に購入することが出来る。誰だって眠っているときくらい素敵な夢をみたいのだ。
 パックには三つの「ゆめたまご」が残されていた。何だってあの人はこんなものを買ってきたのだろう。うっかり間違えただけだろうか? ……本当に?
 実際に「ゆめたまご」を試したことはなかったが、結局そのままホットケーキを作り続けることにした。そうでなくても最近不眠症気味であるという自覚があったからだ。それに、見た目はともかく「ゆめたまご」の味そのものは鶏卵とほとんど変わりがないので、ホットケーキを作ろうがオムレツを作ろうがだし巻きを作ろうが何の問題も無い。「ゆめたまご料理専門店」なんてものもあるくらいなのだ。なお、予約は一年先まで埋まっているらしい。

 その日の夜、夢をみた。
「ゆめたまご」のもたらす作用を踏まえると、あれこそが自分にとっての「幸福」であると捉えて然るべきなのだ。よく分かった。本当にとても分かりやすい。久しぶりに十分な睡眠をとれたことで体調はすこぶる良かった。おかげで今朝はいとも容易く起き上がることが出来たし布団を出たその足でキッチンに向かい、冷蔵庫の中の「ゆめたまご」と昨日冷凍しておいたホットケーキをゴミ箱に捨てるという作業もスムーズに行うことが出来た。

 割れた「ゆめたまご」を眺めながら思う。
 前にあんなに穏やかにあの人と話ができたのは一体いつだったろうか。
 凍ったホットケーキがゴミ箱の底で溶けていくのと同じ速度で、ひとつの淡い予感を覆っていた分厚く堅い殻に、ゆっくりと、しかし確かな亀裂が入っていくことが分かる。
 きっと、あの人がみた夢に自分の姿はなかったのだろう、という予感。おそらくあと少しばかりの時間で、これは確信へと姿を変える。 
 ふたりの間に存在するどうしようもない隔たりが分かってしまって、それが今になってこんなにも寂しい。

                       〈了〉
  

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