The best place to hide a tree

不吉めいた亀裂音とともに物陰から突如現れたおぞましい亡霊にたまげたことで私の心臓は勢いよく口から飛び出てしまった。ホラー映画はこれだから嫌いだ。傍にいたキリちゃんがすんでのところで受け止めていてくれなければ大惨事になっていただろう。というのも、なんと私の心臓はガラスで出来ていたのである。
飛び出てしまったものは仕方ない。だけどちょっと力を加えたら割れてしまいそうなそれをずっと持っておくことははっきり言って恐ろしかったし、行き過ぎた恐怖のあまり手に持った心臓を壁に思い切り投げつけてしまいたくなる衝動が湧いてくることはなお怖かった。「死ぬ事を怖がり過ぎると死にたくなっちゃうんだよ」と言った人は誰だっただろう。いやはや、本当にその通りだ。
結局私はキリちゃんに心臓を預けることにする。彼女の事は誰より信じていたし、なんなら私はキリちゃんにならうっかり心臓を叩き割られても良いかもしれないとまで思っていたのだ。けれど、程なくして彼女は私の心臓とともに私の前からいなくなってしまった。たったひとつ残されたメモには「ラスベガスに行ってきます」とだけ書かれてあって、私はキリちゃんのことがさっぱりわからなくなる。実際のところはわからないけど、今回のことで私のガラスのハートにはちょっとしたヒビくらい入ったんじゃないかと思う。
数年後、私の暮らす街にひとつの美術館が建てられた。莫大な費用をかけてつくられたというその美術館の目玉は19世紀の巨匠が描いた一枚の絵画で、なんでもそのセキュリティは核シェルターも裸足で逃げ出すほどの厳重さを誇るのだという。勿論その他の展示物も素晴らしいものばかりだったけれど、美術館に訪れる人は、必ずといっていいほど最奥に飾られた例の絵画へ真っ先に吸い寄せられていった。かくいう私もそのうちのひとりだ。その巨匠の名前は芸術に疎い私でも聞いたことがあったし実際にその絵画は脳髄が蕩けそうなくらい美しかった。満ち足りた気分でふらふらと館内を歩く私の目はつい今しがた目撃した圧倒的な「美」のせいですっかり曇ってしまっていて、何を見ても心は凪のように穏やかなままだった。と、その時私はひとつのガラスケースを捉える。華々しい芸術品の海原の、あまり目立たない場所にひっそりと展示されたそのガラス細工には見覚えがあった。いやいやまさか。けれど誰もがほとんど素通りしていくその場所にじっと佇む人物をみとめた私の視界は一瞬でクリアになる。身体中の血液が一瞬にして沸騰するような感覚! 失って久しい心臓が大きく脈打つような錯覚を覚えながら私はその人の元へ一歩足を踏み出した。

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