私とワルツを
支度を済ませてドアノブに手を掛けたところでインターホンが鳴った。排水溝にへばりついた、何でできているんだかよくわからない茶色のヘドロに塗れた卵の殻をつまみ出す時と同じくらいの速度で開けたドアの向こう側に立っていたのはキリちゃんで、やあ、とにこやかに首を傾ける彼女の、けれど私は、その腕の中にある球体から目をそらすことが出来ない。
どうしたの、それ。と尋ねる私の横をするりと抜けて、キリちゃんは室内に侵入してくる。
あっちの方で拾ってきたんだよ。とうそぶく彼女は部屋の中央に立ち、私の方を振り返りながら言葉を続けた。あっ、ここってもしかしてミラーボール不可だったりする?
「えっ? 宇宙ってもしかしてハート型だったりする?」と尋ねるかのようなその口ぶりに、私は思わず「いや、そんなことはないと思うけど」と口走ってしまった。そっかそっかと言いながらキリちゃんはミラーボールをテーブルの上に置き、背負っていたリュックを床におろした。じゃあちょっと待ってて、と彼女は笑う。
結局、発せられるべき言葉の数々は、キリちゃんがミラーボールやら照明器具やらを我が家の天井に取り付け始めてからも喉に張り付いたまま動かない。なんでミラーボール? あっちの方ってどっちの方? よりによって何で今夜、っていうかこのタイミング? いや、そもそもなんで私の家を知ってるの? っていうかミラーボール可の賃貸って何だよ。
そうこうしている間に私の部屋はパーティールームと化していた。いやに大きなリュックだとは思ったけれど、どうやらこの人、照明器具だけでなくCDプレイヤーも持ちこんでいたらしい。
お待たせ。じゃ、踊ろっか。
もちろん、彼女の言うことに耳を貸す必要なんてない。差し出された右手を払いのけるもっともらしい理由なら山のようにあったし、何より私はもう行かなければならなかった。
だけど踊るのはとても良いことのように思えた。
私は左手を動かし始める。
だって今日はとても寒いし、流れている音楽はへんに陽気だし、外はもう真っ暗になっていたし、この状況に何か言うような元気はなかったし、そういえば本物のミラーボールを見るのはこれが初めてだったし、部屋を照らすちらちらした光はなんだか素敵だった。もしかしたらこんな中でくるくると踊るのは楽しいんじゃないかと思った。少なくともいま、この部屋の外で私を待ち構えている、ひとつの確実な結末よりはずっと。
空中で、最後にちら、と躊躇った指先を、目の前の彼女は迷わず捉えた。
〈了〉
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