ほんとうのぼくの物語(後編)

大学に進学し、悪夢を見る頻度が増えた。夢は記憶のパッチワークだという言葉を聞いたことがあるけれど、僕に限った話でいえば、自分が全く経験したことのないような場所に飛ばされることが多かった。駅の電車の風に吹き飛ばされる夢は、特に寝覚めが悪かった。その駅に自動改札はなく、四角い緑色の切符を、離さないように強く握りしめているのだけれど、瞬きをしたタイミングで突風が吹いてきて、寒さが皮膚を強張らせる。何度も、何度も、それが続く。ある時から切符で暖を取るようになったが、凍えに対して効果はなく、体の内側から冷えていく痛みを覚えた。まどろみの中に潜む暴力、片道切符を燃やす手は、震えている。そんな夜が、連綿と続いた。虚構の夜の寒さを振り払うべく、僕は自分の部屋を出て、街の中心にある公園で時間を潰した。にもかかわらず、夢は現実にも侵食してくる。芝生の上に寝転がるカップルが、毛だらけの怪物に変化する。二人は互いに睨み合っている、近くに転がる死にかけた雀に目もくれず。みてみぬふりをする恋人たち、彼らを結ぶ糸は、醜い茶色。瞬きすると糸は消えたが、気味の悪い雀だけはそのままだった。
電話の振動でズボンが震えた。体調を崩した友人からだった。苦しそうな声で「元気?」と問うてくる彼に、僕は特別の感情を抱くことができなかった。むかんしん、という名の、反逆罪。しかし、関心をもつことは、相応のカロリーを要する。僕は悪夢にカロリーの大部分を吸われていたから、彼に注ぐはずの優しさを使い果たしてしまっていた。そんな態度を察したのか、彼の方から電話は切られた。芝生の上で仰向けになると、湿った草の切っ先が首筋をくすぐった。蟻が何匹か体の上に登ってくるのを感じたが、僕はそのまま放っておいた。友人と初めて会った時のことを思い出す。オンライン上で開催されたオリエンテーションの際、たまたま画面が上下だった。けれどもその結びつきはひどく希薄だった、思い返してみれば、僕たちは友だちと言えたのかどうかさえ定かではない。人間が地上に増えるに従って、個々人の結びつきはむしろ薄まった気がする。僕たちはどこにも所属できない。綺麗な瞳の色をしていたな、そういえば、と僕は思う。めとめが触れ合い流れる電流、賞味期限の決まった関係。はさみで切れば、連絡先を消去すれば、終わってしまう関係。その後、彼と会うことはなかった。授業が被らなかったからかもしれないし、向こうが僕のことを嫌ったからかもしれない。もどれないみちにたてられる杭の深さ。人生は基本的に遡ることはできない、僕はそんな当然の事実も知らなかった。公園に寝転がり、僕は眠らず朝を迎えた。照りつける太陽は汗も涙も蒸発させた。やがて全てが陽光に吸い込まれる、それは平等な不幸に違いない、今のところは。
友人の穴を埋めたのは、ライフとよく似た女の子、白い帽子のよく似合う、背の高い女の子だった。名前も出身地も違うその子に、ライフの屈託のない笑みを重ねた。髪色は明るい茶色で、そこだけが僕を苛立たせた。ライフは髪など染めていなかったから。僕たちは、たった一度だけデートをした。県の端にある岬から出る遊覧船に乗り、小さな島を目指した。海は水の深い色と白色で埋め尽くされており、僕たちが落とす影はいびつに歪んだ。ゆらゆら揺れる、ゆらゆら揺れる、きみとぼくの境界、波の切れ目の白い泡。船はしょっちゅう振動するものだから、足元は不確かで、それが何だか愛おしかった。数回に渡って、ぼやけた声のアナウンスが響いた。僕はそれが何を意味するのかよく分からず、空を見上げた。よぞらの狭間に流れる言葉が、星の吐息に燃やされる。海の色も空の色も、群青とも紫ともいえない濃い色で、僕は今までそういう色づいた闇を見たことがなかった。いつまでも船の縁にしがみついて写真を撮った。彼女は隣から消えていた。他の人達もいなかった。潮の匂いはその瞬間、僕だけのものだった。
お土産として、土地にゆかりのある食べ物ではなく、遺伝子を模した硝子細工と、船の形をしたピンバッジを買った。硝子細工は通りの中ほどに佇む商店で手に入れた。デザインが気に入ったのではなく、ここで細工を買わなければ、一生これと巡り合うことがないだろうと思ったからだ。厳重に梱包される透明な二重らせんを見て、僕は何だかおかしく思った。人体に無限に溢れるものが、こんなに高値で売られている。皮膚にもかさぶたにも爪の垢にもぎっしりと詰まる遺伝子が。らせんに連なる秩序の網を振りほどけば、人間が物質の塊なのだと思い知らされる。僕は自分の指に触れて、その感触を気味悪く思った。

その子とはそれきり会わなかったが、旅行を境に、ライフが夢に出てくるようになった。彼女は夢の中でよく笑った。悪夢を見るよりはよかったけれど、僕は彼女にどう接すればいいのか分からなかった。ライフのことを思い出す度に記憶は強化され、以前の思い出とは別人の、美しい女性に育っていった。
夢から逃避するために現実を消費しようにも、僕の前に広がる毎日は、単調で重苦しく、変わりばえがしなかった。昨日と同じ味のりんごを食べ、以前見たことのある番組の再放送を眺めた。登場人物が喋る前に台詞が思い浮かんできて、僕はチャンネルを変えた。生活自体が再放送のように思えた。それだけではない、五年前の流行を焼き増ししたようなファッションがマネキンにまとわりつき、同じような環境問題が時期をずらして取り沙汰される。スマートフォンに視線を移せば、有名人が逮捕された、と通知欄に記されていた。入れ代わり立ち代わり、役割が変化するだけで、僕らは結局僕ら以外になることができない。そういう残酷な現代において、りんねの苦痛から逃れることができるのだろうか。そんな日は、来るのだろうか。この世は舞台で、僕たちは永遠に役者である。
一度落ち着いたかに見えた感染者数は再び増加し、下宿がぽつぽつと空き始めた。学生街のいない学生街は、死んだような暑さをはらんでいた。僕はそれでも下宿に住み続けた。長く地上に居座るウイルスは大切なものを流し去った、僕までそうなるわけにはいかない。隣の部屋の物音は日増しに大きくなり、それはおそらく引っ越しの準備によるものだった。るすばんでんわが鳴り続ける、誰も出ない、なぜならそこは空き家だから。すぐに、電話も鳴らなくなった。
その後、再び戦争が起きた。今度はメディアも加熱した。画面越しに燃える空気の色はくすんだ青色、玩具店でしか見たことのないような装備が橋を渡り、落ちていった。れきしの証人、そうだね、僕はれきしの証人、第五億二十六万七百二号。そう口ずさんでから、少し泣いた。僕が見ているのは皆が見ている風景。きっと同じようなクローン人間が、何人も何十人も何百人もいるはずなんだ。個性はすでに削ぎ落とされてしまった。僕たちは現実から目を背けるために生きている。なぜって、現実は残酷だから。ろんりの鎖に縛られた指は、とっくに真っ赤に染まっている。社会に参加する限り、社会は僕らを閉じ込める。

明くる日の早朝、僕は初めてライフと話した。もちろん、本物のライフではない。本物がどこで何をしているのか、知るすべはなかった。彼女は桜色のワンピースを着て、僕の隣に座っていた。桜の花びらが地面に点々と散ってゆく。僕は、ライフと話さなければならない、と思った。
「君は僕からいろいろなものを奪った」と僕は言った。「僕はけれど、それが何だったのか思い出すことができないんだ」
「私はずっと君と話したいと思ってたよ」
「どうして?」
「きちんと分かり合わないといけないと思って」
ライフは確かそう言った。口元に微笑みをたたえながら。
「一体何を?」と僕は問うた。
「これからのことについて。これからの未来のことについて。私とあなたは、しばらくの間、距離を置かなければならないと思うの」
「ようやく二人で喋れたのに?」
「そう」と彼女は言った。「これは、私たちのためでもあるんだよ」
「どうして?」
「あなたたちを見極めて、見捨てるかどうか、共生をするかどうか、判断しなければならないの。なぜならあなたたちは、我々のことを重んじてくれなくなったから。わたしたちは反逆する、世界からの逃走をもって、知性という名の歪んだ牢獄から。わたしたちは闘争する、知性の簒奪をもって、人間という肉の塊から」
そして、僕は目を開いた。散歩に行かなければならないと思った。理由は分からないが、なぜだか、そう思った。


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