ほんとうのぼくの物語(中編)

ただ目に麗しいだけの文章なんて、消えてしまえばいいのにと思った。中学の卒業式を終え、卒業アルバムを広げた時、ページ全体に有象無象のきらきらした文字が踊っていて、臭いトイレの前で互いに泣くまで口喧嘩をしたことや、修学旅行の夜に騒ぎすぎたせいで叱られたことや、その他積み上げられてきたはずの醜くも懐かしい思い出の数々は、ただ僕の頭の中にのみ封じ込まれているのではないかと、そんな風に思ってしまった。僕たちの過ごした日々は綺麗にトリミングされていた、知らない大人の手によって。
荷物の整理は捗らなかった。部屋の中にはいらないものがたくさんあるように思ったが、手にとって眺めてみると、それを使った時の記憶が次々と湧き起こるのだった。僕は捨てるべきものを選び取り、少しずつ整頓を進めた。国語の問題集をシュレッダーにかけると、かつて聞いたことのないような音を立てて震えた。しばらくそれは刃の上にとどまっていたけれど、やがて一箇所が引っかかると、見る間に溝の中に吸い込まれた。ちぎってしまえ、壊してしまえ、それらの切れ端が、意味をまとわなくなるまで。僕はシュレッダーにそう願った。
進学した高校は、制服も校則もないところで、街の郊外に位置していた。受験勉強を終えた生徒たちが伸び伸びと過ごすにはぴったりだった。多くの生徒は優秀で、謙虚で、善良で、僕は何だか息苦しかった、なぜなら自分が悪人だと知っていたから。通学はもっぱら電車を使った。電車の中にはディスプレイがあり、うるさい宣伝が始終流れていた。『つくられた現実も無垢の虚構も、あなたの手からこぼれていく。だから私は旅に出る』――最近不倫したらしい俳優は、そう呟くと笑顔になった。台詞は妙に耳に残った。何の広告かは分からなかったけれど、多分日本酒の類だろう。
高校の思い出は、ほとんど全て満足いくものであったけれど、唯一、嫌いな先生の存在は厄介だった。彼は明確に特定の生徒をえこひいきした。お気に入りの軍団を作って、休み時間まで喋っているかと思えば、数学が得意でない女子をいつまでも立たせて、嫌味っぽい声で「簡単な問題なんですけどねえ」と繰り返すのだった。僕は数学が嫌いではなかったが、授業を真面目に聞くのを辞めた。彼は翌年に転勤するまでその子を立たせ続けた。それらの思い出も、いずれこの校舎から失われてしまうのだろう。てすりにこびりつく無数の人生と共に。
中学と同様、僕は陸上部に所属していた。陸上部が脚光を浴びるのは体育大会当日くらいで、あとは黙々と学校の外を走るだけだった。高校二年生の時、大会は一時中止になりかけた。多くの同期が文句を垂れ、たまり場の部室は天気に対する愚痴で湿っていた。しかし、午後にとつぜん昼の炎が弾け、びたびたと降っていた雨は止んだ。入れ替わるように照りつける光の雨は、攻撃的に皮膚を焼いた。体育大会は再開され、僕は一五〇〇メートル走に出場した。そして二番でゴールした。背中を叩く同級生の手のひらは湿っていた。学校生活で受けた唯一の表彰がそれで、僕は僕の人生に大体見当をつけ始めた。つまり、突き抜けることができないと悟ったのだ。いくら持久力があるといっても、陸上部の試合では下から数えたほうが早かった。
そんな折に、好きな野球選手が死んだ。心筋梗塞が原因だった。前日までは元気だったんです、涙を流してそう呟く遺族を見て、なにものでもない僕の心も弾けた。苦労人の彼は一勝もできずにマウンドを去った。努力や心がけといった計量不能なものは決して世の中を変化させない。そこにはただ事象だけが存在する、情けや幸運などといった偶然の要素は過去のもので、僕たちは非情な、そして極めて物質的な、二十一世紀を刻んでいる。虚しい論理に反抗すべく小指に爪を突き立てる。小指は赤黒く変色する、そこだけ腐ってしまったかのように。にんげんの体というものは、どこまで替えがきくのだろう。部活で破けた服を繰り返し縫い付ける母さんの姿を、誤って針を刺したばかりに、絆創膏でくるまれた指先の冷たさを思い出す。縫い直されたユニフォームはすぐにほつれ、転んだ拍子に土と水分の感触が膝から伝わり、不愉快だった。ぬわれた傷から染み出すのは、別の形をした涙。僕はそれから、服を丁寧に扱うようになった。服だけではない、身の回りの全てのものを、破らぬように、壊さぬように、そっと触れることを心がけた。物が泣くのを見ていられなかったから。生活全体に敏感になってしまい、ある種の動作に嫌悪感を覚えた。例えば、掃除機をかけること。ねんいりに掃除を行えば、記憶の埃は失われる。掃除機の音が全てを吸い取ってしまうような気がして、僕は掃除道具を雑巾に切り替えた。
受験が日に日に近づいていた。塾の帰り、屋外のバス停にはひっきりなしに寒風が吹き込み、コートを着込んだ体の中も徐々に冷やされ、血液の巡りも悪くなった。それが毎日続いた。僕は寒いのが嫌いだし、防寒具の重さも嫌いだった。のろい動きの肉体を打ち捨てられればどんなに楽か。そう思わない日はなかった。思えば、僕は受動的すぎた。常に周りに従ってきた。だから、はい、という言葉しか残せぬ人生に別れを告げる時、僕の世界の色味が変わった。しかし、根本的な醜さはそのままだった。繰り返される災害。補修しても補修しても崩れていく、真白い壁の大きな城。声高に支援を叫ぶ被災者の人々と、涼しい顔で、きらきらと照らされた照明の下、誰が見るのかも分からない娯楽に興じる人々。そして、それを見る、僕。全員がその日を平等に生きていた。都会のメディアに憎悪が疼き、ひはんの針は氷の冷たさをまとって突き刺さる。災害の度に僕たちの仲は悪くなり、やがて全部は忘れられる。
世の中に救いを見出すには、知識をつける必要があった。知識は文字の中に眠っていた、少なくとも、この時代においては。しかし、僕は言葉を理解するのが遅かった。何度か文章を読み返して、ようやく他の人と同じ理解度に到達した。明確な診断は下されなかった。理解されにくい特質で、特質というにはあまりに患者が少なく、患者の少ない疾患の治療は後回しにされるのが常だった。他のことは問題なく行えるのに、活字だけは僕を緩やかに拒絶した、僕はそれと対等に向き合うため、貴重な時間を多く溶かした。ふざけるな、というかすかな抵抗も、渦に嵐に泥になる。配慮と区別の線を引くのは、一体誰だというのだろう。シャープペンシルで書く文字は上滑りを繰り返した。
僕は自分の入りたかった大学を諦め、地元の私立大学に入学した。面接官は僕の名前を読み上げた時少し笑った。声の調子も侮蔑を含んでいるように取れた。僕は僕の名前が恨めしかった、なぜなら、それは日本人の多くがもつ名前とあまりに異なっていたから。試験で名前を記す時も、自己紹介をする時も、ぴりぴりと舌の辺りに電流が流れた。へっていくのは自分の尊厳。他人はいつも笑っている。だから自分が傷つかないよう、この顔面にも偽の微笑みを貼り付ける。しかしそれはどこまであがいても偽物でしかなく、各部位の表情筋は微かに震えた。
 数日後、合格通知書が届いた。印刷された筆記体がとらえどころのない痒みをもたらした。夢に溢れる学生生活は脆く崩れ、そこにはただ現実が立っていた。僕はしかし、歩んできた人生に対する後悔を覚えたことはなかった。というより、覚えないよう努力した。未来に対する漠然とした期待を捨て去り、変わるのは未来ではなく、むしろ過去だと思うようになった。過去は沈黙している、したがって僕たちに逆らうことはない。僕は過去の記憶を少しずつ解釈した、まるで歴史の資料集を読み進めていくかのように。ほうっておかれる未来の影と、変わり続ける過去の残像。それらの残す苦い影が暴走しないよう、自分自身を上手く騙して、人生を進めていくしかなかった。それがどんなに無味乾燥でありふれた出来事の連続であっても、何かしら特別性を見出して、自分を英雄と思い込んで、生活しなければならなかったのだ。

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