かこ

昔のピクシブアカウントにログインした。いま使っているアカウントが二つ目。どうしてアカウントを作り直したのかは覚えていない。

久しぶりに見たそのアカウントは、言ってしまえば過去のものになっていた。好みの絵柄も表現もすっかり変わってしまっている。
ふと、これは悲しいことなのかなと考える。

昔はなにを求めていたのかも、何を目指していたのかも思い出せるけど、いまになって思えばしょうもないことであったり、見当違いをしていたりと、なかなか厳しいものがある。当時に比べて今は好みがはっきりしているし、どうすべきかという方向性もなんとなく掴んでいる。それが偉いとか成長したとかそういうことではなく、何となくのらりくらりと進んだ結果、ただのアカウントが自分の「過去」として立ち現れるようになったことに驚いた。時間はとうに過ぎていたのだ。

昔の方がよかった。過去に戻りたい。そういう人がいるのは理解しているつもりだ。ひょっとするとそれが当たり前で一般的な考えなのかもしれない。でも、自分はあまり、そうは思わないのだ。思えないというほうが正しいか。不安なことは増えたけど、明らかに昔より自由になれたという実感があるからかもしれない。もう一度過去に戻れなんて言われて喜々として戻ることはないだろう。

じゃあ、これからはどうだろう。さらに歳を重ねたら、自分も過去に戻りたいと思うのだろうか。正直なところ、これからもそうは思わないような気がしている。過去は過去として扱われることで真価を発揮するから。そして、そういうやり方で自身の呪いを解き放つから。過去とは自分が自由になっていく過程で積み上げられていくものなのかもしれない。

「一度あったことは忘れないものさ。覚えていないだけで。」
千と千尋の神隠しだっただろうか。
覚えていなければ意味のない、取るに足らない記憶であるとするのは間違いだ。いや、たとえ取るに足らないものであったとしても、その一回性の体験、記憶はかけがえのないものであるはずだ。なんだか自分に言い聞かせているようにも聞こえる、ふわっとした信念のような物言いだ。でも、今はこれでいい。

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