「荊棘の道は何処へ」を読んだ感想

最初にストーリーを読んだ時、この物語は「誰も悪者にはしない物語」なのだな、というふうに読み取りました。そして、同時に「悪者がいない世界でも、人は、誰もが少しずつ『罪』に加担しているのだと、読み手につきつける物語だ」という風にも思いました。それを理解したとき、背筋の凍るような気持ちになりました。

今回の内容は、いままでのイベストの中でもトップレベルで精巧に作り込まれたストーリーだと思います。きっと、ずっとこのストーリーを書きたかったのでしょう、そう思わされるくらいでした。

瑞希ほどストーリーの舵取りが難しいキャラクターはいません。いわば、ダイナマイトを詰め込んだ火薬庫みたいなものです。ほんの少しでも描写に不備があれば、どこからでも火の手が上がり、大炎上してしまう、危険な橋渡り。そういう非常に難しい局面で、勇気をもってこのストーリーを出してくれたこと、素直に、すごいな、と思っています。

それと同時に、怖い、とも思った。本当によく考えられた素晴らしいストーリーだけど、手放しで「良い」とは、どうしても思えない。そのことがつらい。感想を大まかにいうと、そんな感じかな。詳しくは、後述します。

◾️「カミングアウト」を描くこと

別のところでも何度か話をしていますが、私はずっと前から、瑞希がカミングアウトし、絵名が受け入れるシーンを描写することを、危険視していました。そうした描写は、「カミングアウトをすることが正解である」「隠し事をすることは悪である」というメッセージの発信になりかねないからです。カミングアウトすることが正しいだなんていうことは、絶対にないのです。言いたくても言えない事情を抱える人たちが存在するとき、そこには、それぞれの生活があり、状況があり、一生クローゼットのまま生きていく人もたくさんいます。また、成功例の美談の裏側には、たくさんの、受け入れてもらえず傷ついた人たちが存在します。そういう人たちを否定するようなメッセージを、美しい物語に押し固めて語ることはひどく醜悪でしょう。そして、若いユーザーが多いプロセカのような場所で間違ったメッセージを発信することは、下手をすれば人命に関わることであり、とても危険なことなのです。

もちろん、瑞希がカミングアウトしたとしてもそういう受け止め方にはさせないような描き方、工夫も存在します。しかし、ソシャゲは、映画館に観客を2時間も閉じ込めることのできる映画とはわけが違うのです。断片的にしかメッセージを受け取れないユーザーが、他の媒体とは桁違いに多いのです。どれだけ工夫を重ねても、危険な考え方を若い人たちに教え込むことになりかねない。そう危惧していたわけです。

だから、今回「バレる」という形にしたのは、瑞希にはとても辛いことですけれど、大局的見ると、英断だというふうに思いました。多くのユーザーが、勇気をもって打ち明ける瑞希の姿を切望していたなか、このような構成にしたことは、とても勇気のいる決断だったと思われるので、感謝したい気持ちでいっぱいです。

また、「バレ方」にも繊細な配慮がなされていたように思います。

男子生徒Aの発言は、正確にはアウティングとは呼べないと思います。瑞希が男であることは公知であると思います。それどころか、明確な描き方はされてこなかったのですが、もしかしたら登場人物のなかで瑞希が男であると知らない(気づいていない)のが、絵名だけである可能性もあるかもしれないとすら、今回のストーリーを読んで思いました。
もちろん、彼にデリカシーはありません。「君も男なの?」みたいな冗談をとばすって、今時、昭和生まれのおじさんだってなかなかしない。面白くないうえにノンデリってサイアク。
でもそれと同時に、彼を強く責めることもできません。人は時に不用意に、意図せず、誰かを傷つける発言をしてしまう生き物だからです。私もきっと今まで、たくさんの人を傷つけてきました。これを読んでいるあなたもきっと。そんな経験はないよ、とは、言わせません。あなたがもしそう思ったとしたら、あなたが相手を傷つけたことに気がついていないだけです。

また、男子生徒Bの存在も忘れてはいけません。彼は終始、不用意な発言を繰り返すAを宥めています。そういう細かな描写が、屋上での一連の出来事を、いじめのようなものではなく、事故的なインシデントであったのだと、説明してくれています。
もっと、過激な演出もありえたはずです。例えば、誰かが悪意をもってバラす、みたいな構成にだってできたはずだし、もしかしたらそのほうが、瑞希への同情心や、ユーザーの心をより強く揺り動かせる、公式にとって「おいしい」状況を作れたかもしれない。でも、そうはしなかった。きっと、この物語に、悪者を作りたくなかったのだと、そこで気がつきました。それは、この物語が相当にセンシティブかつヘビーであるため、過激な批判が殺到しないよう配慮したものだと思われます。そして、それと同時に、この配慮こそが、冒頭で説明した、このストーリーのテーマに深く絡み合ってくるのだと思いました。詳細は後述します。

◾️瑞希と絵名の対比

ニーゴというユニットの面白さは、各キャラクターの対比にあります。どの関係性においても、キャラクター同士に対極の要素が精緻に設定されています。
では、瑞希と絵名にはどんな対比が用意されているか。この二人の対比、他の関係性に比べ今まであまりフィーチャーされてこなかったのですが、今回のストーリーでは大きな意味を持った、というか、ストーリーの核になったなぁと思っています。

この二人の対比のテーマ、それは

「他人からの審判(ジャッジ)」

です。

絵名は、「他人に評価されたい人」「ジャッジを過度に求める人」としてキャラクター設定されています。
反対に瑞希は、「人からジャッジされることに苦しむ人」としてキャラクター設定されています。

絵名は、自分の絵が称賛されないことに悩みを抱えています。父親に才能がないと言われたから、雪平先生に評価してもらえなかったから、いいねがたくさんもらえないから。だから、自撮りに走るのです。本当にほしい「いいね」じゃなくても、誰かに見られ、誰かに承認してもらいたい。そういう部分にキャラクター像の出発点がある。

絵名は、「私を見て」です。

私を見て、私の絵を見て、どうかいいねって、言ってほしい。

絵名は金魚、そう、観賞魚なのです。誰かに見てもらうために、誰かの心を動かすものを作り出すために、絵を描いている。

反対に、瑞希は、誰かにいいねと言ってもらいたくて、かわいい格好をしているわけではありません。自分がかわいいものを身に付けたくて、やっているのです。かわいいものを身につけていないと、自分が自分でなくなるから、やっているのです。でも、自分にとって自然である生き方を選ぶと、途端に他人の目(ジャッジ)が困難となって降りかかります。奇異の目で見られます。女の子なの?と言われます。生きているだけで自分という存在を説明しなくてはならない。時に、拒絶されたり、離れて行ってしまう。ただただ面倒くさい。それなら人と深く関わる必要なんてない。そういう部分に、瑞希というキャラクターの出発点がある。

瑞希は、「ボクを見ないで」です。

傷つけるなら、遠ざけるなら、説明させるなら、ボクのことは放っておいて、ボクのことを見ないで、ジャッジしないで。

もし絵名との対極で語るなら、瑞希はいわば、深海魚。光が届かない暗闇でも、誰にも見られていなくても、瑞希は瑞希でいることを選びます。

この対比が、今回のストーリーの結末における二人のすれ違いに、間接的であれど、強い影響力をもって関わってきたことに、あっと言わせられました。どういうことか説明するために、もう少し色々な説明が必要なので、詳細は後述します。

◾️明かされた瑞希の本音

このストーリーが「ボクのあしあと キミのゆくさき」のアンサーであることは、改めて説明するまでもないと思いますので割愛します。

ボクキミの時点で既に瑞希は、「ニーゴのみんななら受け入れてくれるであろう」ことを理解しています。
それでも、全てを話すことで何かが変わるのが怖い、だから最後の一歩を踏み出すことができない。
そんな瑞希の複雑な心の内が語られています。

そして今回のストーリーでは、さらにひとつ深い場所にある感情が描かれました。一切のごまかしなく、瑞希の感情の核心を描き切ったことに、本当に胸打たれました。この部分は、私がこのストーリーで1番素晴らしかったと思う点です。胸をつかまれた。

核心とはつまり、「あなたの優しさがつらい」ということです。「相手のことが好きだからこそ、その優しさが、優しさに気がついてしまう自分が、どうしようもなくつらい」。
その痛みは、とてもリアルで、切実で、ちゃんと瑞希の心臓とつながっている、そう思いました。だって、なんとも瑞希らしいと思いませんか。傷つき続けたせいで、人の気遣いにも、人の悪意にも、どこまでも敏感になってしまった、瑞希らしい苦しみです。

そして、「そういうことってあるよね」としみじみ思う。例えば、介護や介助をうけるようになった人が、ケアラーに対して攻撃的になることが珍しくない、というのはよく知られたことです。それは、相手から向けられた親切心が、本人にとってどうしようもなくストレスになることがあるということの証左です。「人に何かをしてもらう」ことは、意外と本人にとってはストレスなのです。そこから逃れられない、もらったものを同じ形で返せない場合は、特に。

◾️「私は、なんで……!!」の意味

「優しさがつらい」、瑞希の言葉を聞いた絵名は強いショックを受けます。当たり前です。そんなことを言われても、絵名にはどうしてあげることもできないからです。

そして、絵名の最後のこのセリフです。「私は、なんで……!!」、瑞希が走り去ってしまったあとに、絞り出されるようにして吐かれたその言葉。あまりにも鈴木みのりさんの名演が鬼気迫りすぎて聞くだけで動悸、息切れ、眩暈がして勝手に涙があふれてきてしまうのですが、それはともかく、このセリフがとてもクセモノなのです。

みなさんは、このセリフはどういうものだと受け止めましたか。「なんで」の後には、どんな言葉が用意されていたと思いますか。「私はなんで◯◯なんだろう」あるいは、「私はなんで◯◯してしまったんだろう」そういうニュアンスであることを鑑みれば、絵名は自分の中の何かを許せないと思ったか、自分の過去の言動を悔いている、そういうことになると思います。

(別の理解もありえるかもしれません。たとえば、「なんで(私から離れていくの)、私は(うけいれるつもりなのに!)」とか。けど、私は声のトーンから、絵名の悔恨のようなものを感じました。)

では、絵名はいったいなぜ、自分を責めたのか。

もう一度瑞希を追いかけることができないでいるからでしょうか。

瑞希の言葉通り、「気遣わずにはいられない自分」に対して許せない、と感じたのでしょうか。

それとも、瑞希が男だと知って、驚いた反応をしてしまったことを後悔しているのでしょうか。

あるいは、抱えているものを打ち明けてほしい、待ってるからと、悪気なく伝えてしまったことに対して、そのことこそが瑞希を苦しめていたと初めて理解したからでしょうか。

あくまで私見なのですけれど。

私は、その全部、だと思いました。

だから、セリフのあとの言葉を補足すると、こういうことになると思います。

「私は、なんで、私なんだろう!!」

相手を信じて、思いやること、それは今まで絵名にとって、ごく自然のことだったに違いありません。絵名には絵名の「当たり前」がある。

ここで、冒頭に説明した、瑞希と絵名、二人の対比が効いてくるのです。

瑞希と正反対である絵名には、きっと、「理解されないなら誰もボクをみなくたっていい」、そんな風に考える瑞希のことが、理解できなかったのではないでしょうか。そういう感情が存在することすら、知らなかったのではないでしょうか。そんな思考に行き当たるほどの苦しみがあることを、想像もしていなかったのではないでしょうか。

自分を見てほしくて、理解してほしくて、褒めてほしい絵名にとって、「相手を知り、理解し、寄り添い、優しく接すること」は、絵名自身が何よりも他人に対して求めていることだったから。相手への優しさ、心配りが、人を苦しめる場合があるということが、わかっていなかった。自分の善意が相手を苦しめていると知らなかった。そしてたぶん、瑞希の心の内を聞いた後も、その思考を自分のものにできない。わからない。だから、瑞希のあとをもう一度追いかけることができない。これ以上、本当の意味で瑞希に寄り添うことができない自分を直視してしまった。そうして、

「私は、なんで、私なんだろう……!」

になるのではないかというのが、今の私の考えです。(もちろん、ただ私がそう受け取ったというだけで実際はわかりませんが)

◾️誰も、悪くない。でも、誰もが、瑞希の苦しみに加担している世界

しかし、このやり取りを傍観者として見ている我々が思うことは、ひとつだと思います。

「それでも、絵名は、悪くないでしょう」

そうなんです。何一つ悪くないんです。相手を傷つけようと思ったわけでも、面倒臭いなと逃げ出したわけでもない。誠実に向き合い、相手の気持ちに寄り添おうとしただけ。その優しさを悪とすることなんて、絶対にできないんですから。

そこで、私たちは考えます。じゃあ、どうしたらいいのよって。「相手に優しくされることがつらい」そう言う瑞希に、いったいどうしてあげたらいいのでしょう。どういう世界が来れば、瑞希はつらいと思わずにすむのでしょうか。

そこで、思ったんです。

仮に、ですよ。仮に世界が、

「男の子がスカートを履いても誰も気に留めないセカイ」だったら?

 「リボンが大好きな男の子がいても、それを当たり前のように受け入れるセカイ」だったら?

「かわいい男の子でいることが特別でないセカイ」だったら?

そんな世界だったらきっと、瑞希は、「変なの」なんて言われない。「どうして男なのにそんな格好してるの?」なんて聞かれない。「あいつ、あんなかわいいのに男らしいぜ」って好奇の目に晒されない。そして、何よりも、

二人が初めて対面した時、絵名は瑞希を、女の子だと誤解しなかったかもしれない。

考えてもみてください。瑞希は、一度も自分が女だと嘘をついたことはないんです。絵名が勝手に誤解していただけという受け取り方もある(それは仕方がないことではあるけれど)。そもそも瑞希は、そうしたことを自分でわざわざ説明したことがないんだと思います。神高に通う周囲の人が瑞希が男であると知っているのは、彼らが瑞希と学校生活を共にしているからです。体育をはじめとして、学校には男女で区分せざるをえないシーンが必ず存在して、そこにいれば、瑞希が男だとわかってしまう。だから特別隠したり、説明したりもしてないのだと思います。そもそも、当たり前に自分らしく生きているだけなのに、どうして自分だけは理解してくださいと説明してまわらなくてはならないのか。瑞希にとってはそれすらも、つらいことだったはずです。

瑞希のような存在が「特異」でないセカイだったら、瑞希は自分のことを説明する必要なんてない。説明できないでいることに、苦しむことはない。だって、そもそもそれが、自然なことなんだから。

そして、瑞希の抱えている苦しみをうまないために、今ある世界の方が間違っていると言わなければならないとしたら。

その世界を作っているのは誰でしょうか。

それは多分、私たちひとりひとりです。ユーザーを含む、この世界で生きるすべての人々です。「リボンの好きな男の子ね。いいんだよ、そういう人がいたって。でもそれって、フツウ、ではないよね?」、そんなステレオタイプが、この世界をかたちづくっている。

そこまで思考が進んだとき、はっと、黒画面が脳裏をよぎりました。


8話を読もうとすると出てくるポップアップ
です。瑞希が逃げ出した後、セカイに逃げ込んで現実世界に戻れなくなってしまったことを表すための、仕様変更。アップデートが入ることを知らせるための警告文。

当然必要でしょう。バグだと思ってしまう人もいるかもしれないから。
でも、もしかしたら、アップデートを知らせる以上の意味が、メッセージが、あったのかもしれない。

「このストーリーの結末を知りたい」という私たちの好奇心。「瑞希が何者なのか、瑞希がどう思っているかを知りたい、理解したい」という好きという感情の裏側にある欲望。
それが、瑞希を現実世界にはいられなくしてしまうのです。

絵名がそうであったように、あなたが無垢に、善意で、好意でむける瑞希への感情もまた、きっと瑞希を追い詰める感情のひとつなんだよって、そう言われてる気がしました。
お前、この話を他人事だと思ってたろ、って、言われてる気がしました。

ただのいちユーザー、傍観者だったはずなのに、突然舞台に押し上げられ、刃物の切先をつきつけられた気分でした。

正直ユーザーなら、一度は思ったり、発言したりしたことはあるはずです。

「瑞希って結局なんなわけ?」

予想したり、こうじゃないかって、みんな想像してたはずなんです。それは、ただの好奇心です。悪いことかと言われるとそんなことはないと思う。けれど、多分、そんな、罪のない無垢な関心が、「当たり前のことを当たり前に思う」ことが、この世に瑞希が抱えている種類の苦しみがあることを知らないことが、実は間接的に、罪への加担になっている。

誰も悪くないけど、誰かがひどく傷つくこと。それはどこの世界にも往々にしてあることです。仕方ない、あきらめるしかない、だって誰も悪くないじゃん。そうなってしまうことがある。
でも、そういうとき、もしかしたら、周囲にいる人たちが、この世界に生きる人たち全てが、少しずつ罪を分配しているのかもしれない、そう思う時があります。私たちの意識が、言動が、すべて地中奥深くで密接に絡み合っていて、直接傷つけてはいなくても、誰かの抱えた傷の遠因になっているかもしれない。

我々は、男子生徒Aを責めている場合ではないのです。
自分の理想としていたシーン見ることができなかったフラストレーションを、他人にぶつけている場合ではありません。
瑞希への行き場のない同情心の捌け口に、他人を利用している場合ではありません。

私たちが見守った物語の行く末には、私たちがリアルに生きる現実世界につながっているのですから。

あなたのその同情心こそ、今の瑞希を傷つけているのかもしれない。そう思うと、ちょっと、ゾッとしませんか。だって瑞希はたぶん、かわいそうだと思われることにも、きっと傷ついてしまうだろうから。

◾️良いストーリー、だけど怖い

本当にうまく組み立てられたストーリーで心底感心しました。でも、やっぱり手放しでは褒められない。これは多分、私が絵名推しであるからというのが、99.9%だと思うんだけれど。

プロセカって今まで、ここまで互いの依存を煽るようなすれ違いって、描いてこなかったと思うんです。

レオニはすれ違いがスタート地点になっているし、モモジャンは冒頭けっこうギスギスしている。でもそれは、あくまで物語の起点にしかすぎませんでした。
その他では、杏のこはねに対する感情は、非常に複雑な執着心が描かれていたと言えるかもしれない。でも、それはあくまで「共にRAD WEEKEND を超える」という共通の目標のなかで生まれた感情だったし、徹頭徹尾、杏ひとりの問題として描かれていたように思います。

でも、今回は違うじゃないですか。あんな拒絶のされ方をしたら、絵名は自分を責め、自分がなんとかしなくてはと思うでしょう。絵名は自分の抱えている問題(絵に対する葛藤)とは全然別のところで、突然、ある意味で理不尽に、高校生の女の子が背負うには重すぎるものを、押し付けられた。もちろん、瑞希を責めることはできないけれど、事実、そうなんです。

正直言って、美大受験どころの話ではないじゃないですか。

絵名をいちばんに推している私は、瑞希の問題が重く、大変だと理解していても、思ってしまうんです。

絵名には、絵名の問題に集中させてあげてほしかった。美大受験をようやく決意できた絵名の、ひたむきな絵に対する姿勢を見守っていたかった。

けれど、瑞希の問題があるうちは、そういう姿は見られないのでしょうね。そう思うと、ほんとうに辛い。こんなものを絵名に背負わせてしまう、それを当たり前とする世界が、私には怖いです。



大まかな感想というか、今の自分の受け止め方は上記のような感じ。以下、思ったことをつらつらと。



◾️実は描かれていたまふゆの成長

サイストで、絵名がイカ焼きを作るのを、みんなで見守ってるシーンについて。何か話題を提供して、そう言う絵名に、まふゆは最初、「そのイカの種類や産地はどこか」と聞きます。うまく答えられなかった絵名が「もっと盛り上がりやすい話題はないのか」と問えば、「関東と関西のイカ焼きの違い」という話題を提供し、その場が盛り上がります。
なんてことのないシーンのようにも思えます。でも、よく考えると、まふゆの中にちゃんと「盛り上がる話題」と「盛り上がらない話題」の区別ができていることがわかります。そして、優等生のまふゆだったら迷わず、盛り上がる話題を提供するでしょう。
でも、あえてそうしなかった。もしかしたら、盛り上がる話題がわかってはいたけれど、その時まふゆが本当に知りたかったのは、イカの種類や産地だったのかもしれません。
周囲の盛り上がりよりも、自分の聞きたいことを優先する。実は、昔のまふゆにはものすごく難しかったことではないかと思うのです。でも、こうして、ニーゴのなかでだけども、本当の自分を出せるようになりはじめている。そんなシーンだったのかも、なんて、深読みしすぎかもしれないけど。

◾️文化祭を楽しむ奏

奏は通信制のため、学校行事とは無縁です。事実、文化祭、体育祭、修学旅行、臨海学校(だっけ?宮女のやつ)、そういったものといつも無縁です。でも、今回奏が、高校生らしく文化祭を楽しんでいる様子がたっぷり(サイストもあわせると、かなりの分量がありました)と見られたのが、シンプルに嬉しかった。ニーゴの箱で、しかもまた瑞希バナーで最後の神高祭おわり?って他ユニ推しの人が怒ってるの知ってるけど、その怒りに大いに共感もするけれど、奏に文化祭を楽しんでもらえたのは、マジでありがとうと思ってます。ごめんなさい。

◾️一番好きなシーン

瑞希が絵名を屋上に誘い、二人で向かうシーンです。後夜祭になり、校舎からどんどん人がいなくなり、でもまだ辺りにはお祭りの興奮の余韻が漂っていて、外の喧騒が遠くに聞こえていて。祭りの後だからこそ、より足音が響く気がする廊下で、ぽつぽつと会話を交わす。瑞希が緊張しないように、絵名が珍しく取り留めもない会話をつなぐ。

ぜひ映像でみたい、そう思うくらい、美しいシーンだと思いました。

※今回はできるだけ、ストーリーの内容のみに絞った感想を書きました。その他の、バナーや運営の方針などに対する想いは、時間があれば、ふせったーにまとめようと思ってます。


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