てにをは「ザムザ」、イミシブル・ディスコード、フランツ・カフカ「変身」、中島敦「山月記」について

「ザムザ」の初音ミクフルバージョンが公開されました。それに伴い、歌詞も全体公開されたため、備忘録として、今回のイベントと「ザムザ」という曲に関して思ったことを書きます。

「変身」と朝比奈まふゆについて

タイトルやストーリーとの類似性から、「ザムザ」という楽曲がフランツ・カフカの「変身」にインスパイアされていることに関して、異論はあまり出ないでしょう。

フランツ・カフカの「変身」とはどんなストーリーでしょうか。

ある日、グレゴール・ザムザは目を覚ますと、自分が巨大な虫に変身していることに気がついた。その姿を見た家族や同僚は恐怖する。混乱のなかでもやがて、妹のグレーテがグレゴールの世話をしてくれるようになる。
その姿を見せないよう、妹が食事を運ぶ際は身を隠すなど、家族のことを常に案じているグレゴール。腐った食べ物がおいしく感じられ、また床にいるよりも天井にはりついたり、壁を這ったりするほうが居心地が良いことにも気づき始める。
グレーテはそんな兄の様子を察して、部屋中を心置きなく這いまわれるよう、家具を撤去しようと思いつく。グレゴールは、部屋が変わってしまえば、己の人間らしさが失われると考え、抵抗するために家族の前に姿を現してしまった。その姿を見た母は気が動転し気を失ってしまう。父は激高し、グレゴールにりんごを投げつけ、そのリンゴはグレゴールの体に埋め込まれてしまうのだった。
グレゴールの世話に疲弊しきった家族は、グレゴールを家から追い出すことを決意する。しかしグレゴールは既に、飢えとりんごを投げつけられた時の怪我が原因で死んでしまっていた。
両親は、ようやくグレゴールがいなくなったことに安堵を覚え、同時にグレーテが美しい女性に成長していることに気づき、結婚相手を見つけてやらねばと思うのだった。

今回のイベント「イミシブル・ディスコード」の書下ろし楽曲である「ザムザ」。当然、そのタイトルは「変身」の主人公「グレゴール・ザムザ」からきているはずです。また歌詞の

どうか林檎を投げつけないで
胸にLock up Lock upザムザ
(Lock up=閉じ込める、動かなくなる、など)

てにをは「ザムザ」

この歌詞を、実の親からりんごを投げつけられ、そのりんごが「体内にとどまり」、それが原因でやがて死んでしまった「変身」のグレゴール・ザムザの姿と重ねてみてしまうのは無理からぬことでしょう。

それでは朝比奈まふゆにとっての、「りんご」とはどんな存在でしょうか?

まふゆのストーリーにおいて「りんご」といえば「灯のミラージュ」というストーリーをまずは思いつくでしょう。後述にもある通り、「灯のミラージュ」からは奏の「まふゆのそばから離れない」というメッセージが受け継がれており、本ストーリー「イミシブル・ディスコード」とは、ある種の強い密接さを持って描かれているストーリーだと思われます。

さて、それで、灯のミラージュで描かれた「りんご」についてです。

まふゆが奏の曲を聴いて笑った時。なぜ自分はその曲を聴いて笑ったんだろう、と疑問に思ったまふゆは、自分の過去について振り返ります。曲は、奏が両親との優しい記憶を思い出し、まふゆに「笑ってほしい」と願って作った曲でした。
それに呼応するように、まふゆは、母とのあたたかな記憶を思い出します。それは、まふゆが幼い頃、病気になったときに母が食べさせてくれたりんごの記憶です。うさぎの形に切られたりんご。まふゆの中に、とても愛しい思い出の象徴として大切にしまわれていたに違いありません。

そう、「りんご」は、まふゆにとって母からの愛情の象徴なのです。

ここで、今回のイベントの話が大きくかかわってくるわけですね。「イミシブル・ディスコード」というストーリーはどういうお話でしょうか。

トピックだけ抜き出せば

・まふゆの母親にニーゴの存在が知られてしまう
・「怒り」の象徴たるカイトがセカイに現れ、まふゆに「反抗しろ」とけしかける
・奏がまふゆの母親と初対面する(まふゆ母の立ち絵と声が初登場)
・まふゆの母親は「夢のためにまふゆがサークルをやめるよう説得してほしい」と奏に話す
・奏はまふゆの母親とは話し合いで解決することは難しいと悟り、まふゆのそばを離れないと宣言する

まふゆと母の関係性を、どんな風に読むかは人それぞれだと思います。しかし有り体にいえば、まふゆの母は「愛情と支配を勘違いした、子供の想いを殺そうとしている毒親」ということになるでしょう。

毒親を持った子供が自身を救済するためにとりうる手段は、「自立」だと思います。それ以外にはなかなか難しい。「自立」の大切さはもしかしたら、毒親を持った子どもだけでなく、すべての子どもにも言えることかもしれません。
親も間違える、ひとりの人間だと気が付くこと。親と自分を切り離し、自分の意見を持ってそれを選び取ること。その過程は、「親に抗う」ことから始まります。子供にとって「イヤイヤ期」も「反抗期」も、大人になるための大切なプロセスなのです。

今回は、その道筋が示されました。カイトの登場です。まふゆは初めて「母親が間違えているのかもしれない」ということに気づき始めます。
(気づきの過程、そこにはもちろん、ニーゴの存在があります。母の意見=自分の意見、と反射的に思ってしまうような、母との不可分の一体性から脱却するために、他者の視点「ニーゴ」があり、その存在がまふゆの中で大きくなっている、ということだと思います。なので、まふゆが初めて自分から母親を分離させた瞬間(カイトが登場したタイミング)に、宵崎奏という他者のまなざしによって、まふゆの母の立ち絵が登場したことは、唸るような見事な演出でした。)

プロジェクトセカイのストーリーは、どこまでもリアリスティックです。生々しいです。

虐待する、ネグレクトする、あるいはまふゆの母親のように、過干渉で子どもを苦しめる親たちは、現実世界にも本当にたくさんいます。幼児虐待のニュースは後を絶ちませんし、本ストーリーのように、外から見ればわかりづらい形で、本人すら無自覚に、子供を苦しめているというのは、ありふれた話だと思います。

そして、幼いころはそうとは気づけぬまま、虐げられ、自尊心を踏みにじられて育ってきた子供たち。そういう子供たちが何に一番苦しむのか。

それは、親への愛情だと思います。

なぜ、行政や法律が家族の間になかなか介入できないのか。周囲から子供たちを救うのがどうして難しいのか。それはやっぱり、親にも子にも愛情があるからなのです。「こいつは毒親だ、だから縁を切ろう、さらば」だなんて、どうしていえるでしょう。人間の感情は、そんな風に簡単に割り切れるものではありません。悪い記憶がたくさんあっても、ちゃんと良い記憶もある。「お母さんはきっと私を愛してくれているはずだ」、それを信じ続け、それだけをよすがに生きてきた子供たちに「そうではないから、親を否定せよ」というのは、死ねといっているようなものです。客観的に見て良い親であるか、悪い親であるかは、子供にとってはあまり関係ないのです。

繰り返します。まふゆにとってりんごは、母親からの愛情の象徴です。

そのりんごの記憶が、まふゆの体に埋め込まれたまま、体はズキズキと痛みを主張し、その身体を腐らせていく。グレゴール・ザムザのように。
まふゆにとって母親は、ある種の絶対的な存在なのでしょう。自分を見失うくらいに大事な存在を否定しなければならない、そう気づいてしまったときに、あたたかな記憶としてしまわれた象徴としての「りんご」は、苦しみの根源にもなりえてしまった。それが、痛みの正体ではないでしょうか。
誰だって、愛するものに反しなければいけないとき、信じ続けていたものに裏切られるとき、本当に悲しく苦しい気持ちになると思います。胸が痛むと思います。
私はまふゆの痛みに思いを馳せるたびに、あまりにも苦しくて、泣けてきてしまいます。

ミラージュのとき、イラストは白雪姫がモチーフですから、この頃からりんごが毒りんごであることはもちろん示されていましたが、それにしても「りんご」というモチーフがここまで辛さの象徴としてストーリーに落とし込まれるとは思わず、感心するとともにひどく辛い気持ちにもなりました。

また、カフカの「変身」では、グレゴールは「グレゴール・ザムザという人間であり続けるために」自分の部屋、持ち物を守ろうとして這い出したところ、両親に姿を見られてしまい、そこでりんごを投げつけられます。グレゴールは自分がただの虫けらになるのではなく、自分が自分であるために、あり続けるために勇気を出して行動を起こし、その結果として親に殺されてしまうのです。
自分を見つけよう、取り戻そう、自立しようと藻掻くまふゆに、母からの愛情、やさしい記憶が逆に苦しみとなって降り注ぐ。まさにグレゴールがうけとめたリンゴのつぶてと同じじゃないか。なんとも切なく、苦しいストーリーだと思いました。

フランツ・カフカの「変身」にこめられたメッセージ

フランツ・カフカの「変身」をどう読むのかに関しても、読者に委ねられるところだと思います。人間の「不条理」を描き続けた、カフカの代表作のひとつであり、ユダヤ人であった彼のルーツに根差した作品だとも言われています。

代表的な訳者のひとりである多和田葉子は、解説の中で「介護の物語が読めてしまった」と書いた後に、下記のように綴りました。

また、グレゴール・ザムザのように部屋の外に出られなくなるという現象は、不登校やひきこもりなど日本ではめずらしくない。本人は昨日までの自分にいつでも戻れる気がしているが、どうしても戻れない。しかも原因が自分でも分からない。家族の期待を裏切る苦しさの合間にふと、家族の期待から解放されたくて、こうなったのではないかと思うこともあるだろう。

集英社文庫 「カフカ」 多和田葉子編

この文章を読んで、まふゆ、ひいてはニーゴのメンバーみんなのことが思い出されてしまうのは、私だけではないと思います。

朝比奈まふゆに救いはないのか

カフカ「変身」のラストは前述の通りです。グレゴールは死んでしまいます。残された父、母、妹が、あたたかな電車の中で、将来に希望のようなものを見出し、物語は幕を閉じます。「不条理」を描き続けたカフカらしいラストといえるかもしれませんが、このラストを多くの人はどう受け止めるでしょうか?
物語を通してグレゴールのやさしさや苦しみに触れてきた読者としては、やっぱり煮え切らない思い、グレゴールがかわいそうだという気持ちになるのではないでしょうか?
「変身」はグレゴール・ザムザだけの物語であるように、朝比奈まふゆの物語は朝比奈まふゆだけのものだと思います。私は、この物語は救われる物語だと信じています。

そのヒントは、「ザムザ」という楽曲にも隠されているのかもしれません。

ねえ123で飛んで ザザザザ ザムザ
一切合切蹴っ飛ばして ザザザザ ザムザ
あとがきで触れられもしない日々
ここで逃げ出したら 本当にそうなりそうだ
(中略)
どうしようもない成れの果てでもここにいる
シャガの花に毒されても
光は1時の方角にある
今は尻尾を引き摺りゆけ
ザザザザ ザムザ
だから「現実はもういい」なんて云うなよザムザ
おーけー?

てにをは「ザムザ」

「変身」におけるグレゴールについて「あとがき」には描きようがないでしょう。それはグレゴールが死んでしまったからです。
でも、朝比奈まふゆはまだ消えていません。

この曲の焦点は今抱えている苦しみだけれど、かすかに希望なようなものを、上記の歌詞からは読み取ることができます。
光はニーゴにあること、現実と向き合うこと、その未来が示されているように思えてなりません。これは、「どうしたらグレゴール・ザムザを救うことができたのか」、そういう物語ではないでしょうか?

カフカ「変身」のなかで、グレゴール・ザムザが自分の死を受け止めるのは午前3時です。

家族のことを振り返って想うと、心を揺さぶられ愛情さえわいてきた。決め手となったのは妹の意見ではなく、自分は消えるべきなのだというグレゴール自身の意思だったかもしれない。からっぽで平和な気持ちで物思いにふけりながら午前3時を告げる鐘の音を聞いた。窓の外が全体的に明るくなり始めるところまでは感じとることができた。その後自分の意志とは無関係に頭ががっくり落ちて、鼻の孔から最後の息が弱々しく吐き出された。

集英社文庫 「カフカ」 多和田葉子編

何もしないまま朝が来たら、その時には、グレゴールのようにすべてが終わってしまうかもしれない。
でもどうか午前1時(25時)まで時計の針を巻き戻して、この物語とは違うストーリーを紡ぎだしてほしい。ニーゴのみんなとなら、それができるはずだと、そう信じています。
ニーゴの活動は、まふゆの母親が寝た後にはじまります。いわば、一日の終わりの後にやってくる延長戦。一日が本当に終わってしまって、次の日の朝が来る前に。往生際の悪い延長戦で、ニーゴらしい素晴らしい逆転劇を見せてくれるはずです。



さて、ここから先は与太話、オタクのただの妄言です。
(さんざん語った上記の内容も妄言と言われればそれまでではありますが)

「山月記」、それから宵崎奏について

「ザムザ」という楽曲を聞くと、(とくに先だって配信されたゲームアプリ用のショートバージョンは)カフカ「変身」の内容とさほど類似していないことに気がつきます。「変身」を思わせる文章はりんごのくだりや、あるいは鏡のくだりはつながっていなくもないけれど、タイトルで思い切り「変身」をにおわせておきながら、それ以外の箇所には違和感がある。
それで、ツイッターで「山月記じゃないか」みたいな話を読んで、なるほどと思いました。

冒頭の

使い古した自分の名前にあえてキッチュなルビを振って
高潔を打ち負かせるくらいに恐ろしくなる 骨の髄まで
今はどんなふうに見えてますか? 醜いですか? それはそっか

てにをは「ザムザ」

とかの歌詞は、私はどちらかというと山月記のほうがしっくりきますし、

走り出したらもう獣だ
月の真下をうろつきながら考えてた夜すがら

てにをは「ザムザ」

こことか、本当に山月記っぽいですね。

月の下を、というモチーフは、例えば絵名と瑞希が初めて作ったMVも「月の下を歩く女の子」のイラストであったはずなので、そうした関連もあるかもしれませんが。
個人的に「山月記」というのは確かにしっくりくる解釈でした。

あとはやっぱり、歌詞に出てくる「尻尾」の存在でしょうか。かなり重要な場所で出てくるワードです。

どうでしょうね。「変身」でグレゴールが変身したものは、原文(ドイツ語)では「Ungeziefer」と書かれているそうです。これは今日では「害虫」を意味するそうですが、語源的には「生贄にできないほど汚れた生き物」という意味だそうで、多和田葉子訳では虫ではなく「ウンゲツィーファー(生贄にできないほど汚れた動物或いは虫)」というように訳があてられています。
またカフカ自身が表紙の制作に際して、グレゴールが変身した姿を明確に描かないでほしいと依頼していたという逸話もあり、何に変身したかは読者の解釈に委ねられるようです。
しかし、足が多数あり一列に並んでいるという描写や、ベッドからなかなか起き上がれずにいる描写から、何か甲虫のようなものが想像されますし、一般に浸透しているのは「虫」「害虫」に変身したという見方であるように思われます。

そうなると、虫に尻尾ってあるかな。ムカデとかは尻尾っていいますかね。ミミズとかね。だから虫のしっぽって無いわけじゃないですけど。
でも「尻尾をひきずる」ってやっぱり動物として解釈する方が個人的にはしっくりくるかなあと思いました。だからここは虎だと解釈するのは全然アリだろうと。このあたりは感覚の問題でしょうか。

異形に変身してしまう話、といったとき「変身」と「山月記」は文学に慣れ親しんだ人ならばまっさきに思いつく二作品だと思います。「美女と野獣」「かえるの王さま」といったような、「異形に変身してしまうが、愛の力でもとにもどる」といった童話作品とは一線を画し、異形に変身したまま、その嘆きを描き切ったという意味でも非常に類似性のある二作品だと思います。なので、この楽曲に山月記のモチーフも入っているという解釈は、とんでもない解釈、というわけでもないような気がしています。

では、山月記はどういう話でしょうか。

才能に秀でた官吏の李徴は、小役人に甘んずる必要はない、自らの詩作の才能で名をあげてみせようと、官吏の職を辞することになった。しかし詩人として芽が出ず、妻子を養いきれなくなった。詩業にも絶望し、地方官吏の職につくことになったが、やがてそんな状況に耐えかねて、発狂し人食い虎になってしまう。
そんな李徴に偶然、かつての友である袁さんが出会う。虎になった姿を見られたくないと姿を隠しながら、李徴は人間である己を失いつつあること、なぜ自分が詩人として大成できなかったかを語る。李徴によればそれは「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が自分にあったからだという。どうしても諦めきれなかった詩のいくつかと、妻子への世話役を袁さんに託す李徴であったが、本来ならば妻子のことを真っ先に気にかけるべきだったのに、自分は詩作の話を先にした。こんな男だから獣に身をやつすのだと自嘲する。
最後に、もう二度と会わないために、離れてから自分の姿を見てほしいと袁さんに頼む。袁さんが言われた通り少し離れてから振り返ると、一匹の虎が月に向かって咆哮しているのが見えた。

こっから本格的に私の与太話なんですが・・・・・・。山月記かもってなったとき、私は真っ先に思ったんです。ああ、李徴は奏のお父さんだと。

プロジェクトセカイを楽しんでいる人たちにとって、奏の父親って、どういう存在なんでしょう。まふゆの母親に関する言及はいくらでも目にしますが、奏の父親についてはあまり見たことがないです。苦しんで倒れてしまっているので、同情的な見方が多いでしょうか。

でも、まふゆの母親がかなりドギツイので、その陰に隠れている感じはありますけれど、私は奏の父親もなかなかひどいな、と思っています。

その一番の理由は、やっぱり娘に背負わせたものが大きすぎるでしょう、ということなのですけれど。

父親が音楽をうまく作れなくて苦しんでいるシーンがあるでしょう。メインストーリーだったかな。あそこで、奏がお父さんをずっと気遣っていて、ごはんとか作ってあげてるシーンあるじゃないですか。「お父さん、お昼いつもカップ麺だから、夜はちゃんと食べなくちゃ」とかいって。娘のほうが、奏のほうが用意してるんですよ? あのシーン、本当にひどい父親だなって思うんです。
冷静に考えて、幼くして母親を亡くした娘がいたら「曲つくれない……」とか言ってる場合じゃなくね? って思っちゃう。中学生なんて、一番多感な時期じゃないですか。母親を亡くした娘に父親ができることなんて、毎日お腹いっぱい食べさせてあげて、あたたかいお布団を用意してあげて、お前はいつでもここに帰ってこれる、お父さんはだれよりもお前の味方だ、って言ってあげること以外、することなくない? みたいな。確かに「奏のために金になる音楽を作らなければ……」みたいなそれっぽいこと言っているんですけど、別に音楽じゃなくてもいくらでもお金を稼ぐ方法なんてあるし……みたいな。

そう、つまり、奏の父親がもっていたもの、それが「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」、そのものじゃないかって思うんです。奏の父親は、父親である前に作曲家である自分を捨てきれなかった。かといって周りに頼ることもできなかった。臆病な自尊心は、悩みを一人で抱え込むことにつながった。限界をむかえて、日記を娘に読まれるという最悪の形で、最愛の娘に呪いをかけた。尊大な羞恥心のせいで支えてくれる人がいなくなったばかりか、娘である奏すら、周囲に頼ることが下手くそになってしまった。奏がまとう儚さ、どこか危うい感じは、父親の呪いによるものじゃないかと思う。
事実、父親が昏倒してしまった後の奏は、セルフネグレクトの状態に陥ります。穂波やニーゴがいたから少しずつ変わってきているけれど、いまだにあの薄暗い部屋でカップ麺ばかり食べていると思うと、「いや普通に心配なんですけど」みたいなマジレスしたくなります。

悲しいのは、奏もその呪いによって、少し「父親然」としてしまっているところですよね。それは、今回の「イミシブル・ディスコード」でも意識してしまった。

「イミシブル・ディスコード」、確かにこのストーリーの奏ってかっこいいんですけど、引っかかるところも多くはなかったでしょうか?

まず大きな一つは、まふゆの母親との対峙を、まふゆには秘密にしておこうと決めたことです。これは指摘している人が多かったですし、アフタートークでも田辺さんがしきりに口にしていたことなので、多分意味があるというか、今後のストーリーのキーになる可能性があるなと感じています。
普通に考えて、今までの流れなら、本当にまふゆの気持ちに寄り添える奏なら、まずまふゆの気持ちを聞いて、まふゆの意思を尊重するんじゃないの?って思います。ここでなんかモヤモヤ。

もう一つは、奏の母親のエピソードです。
奏がまふゆ母と対峙して「この人はまふゆのことを本当は考えていない」ということを悟るときに、自分の母親のことを思い出すシーンがあるじゃないですか。あそこ違和感ありませんでした? 「私もお父さんみたいな曲をつくる、そうしたらお母さんもっと幸せになれる?」と聞いた幼い奏に母親は「お母さんのためじゃなくて、奏がほんとうにやりたいことをしていい、奏自身が幸せに過ごしてくれればいい」と返します。これは、まふゆの母との対比として、「本当に娘を想う母親像」があり、また奏の家族を想う気持ちとともに想起されているエピソードで、話の流れ的に流してしまいそうになりますが……いやいやいや待ってくれと。立ち止まってしまうわけです。
つまり、奏の母親の言葉、奏に全然届いてなくない? みたいな。
だって、奏って今、自分が幸せになるために、幸せでいたいと思って、曲作ってるっけ?って。憑りつかれたみたいに「誰かを救わなきゃ、まふゆを救わなきゃ」って思ってる。たぶん、奏の母親は、そんな痛々しい姿で音楽をやってほしいなんて思ってないと思う。そのことに、奏自身が気づいてないわけですよ。そのことを伝えてもらった思い出がちゃんとあるのに、自分のことが見えていない。これは、奏が抱えている問題のすごく深いところが見えた気がするエピソードです。

最後に。
ストーリーの終盤、まふゆの母が奏に「そろそろ帰った方がいいわ。おうちの方も心配するだろうし」というセリフがあるじゃないですか。ライターの人、よくもまあこういう人の内臓をえぐるようなセリフを思いつくなと感心してしまうのですが……。ともかく、奏の家は帰ってもだれもいないわけです。そういう、無意識に他人を傷つける言葉を口にしたまふゆの母に対しても、奏は「……わかりました」と答えるだけです。
果たして、両親を2つの意味で失った10代の女の子の反応として、これは真っ当でしょうか?
奏は自分自身の傷に無自覚すぎるのです。それは奏の長所でもあり、強さでもあり、ニーゴの面々はまふゆを筆頭に、そんな奏のおかげできっと息ができているのも確かです。でも、やっぱり痛々しすぎるよ、と思ってしまいます、私は。

やっぱりこのストーリーってちゃんと奏も救われてほしいなって思う。というか、そういうストーリーだと私は思っています。奏はただ救う側なんじゃなくて、奏自身も痛みからちゃんと解放される必要がある。

だからザムザという楽曲は、まふゆのストーリーを形にした楽曲であると同時に、奏のストーリーも色濃く反映されているんじゃないか、みたいなことを妄想しているのであります。3DMVで奏とまふゆが手を伸ばしあうシーンがあるんですけど、あそこ手をつなぐんじゃなくて、お互い胸を抱え込むような仕草に流れるじゃないですか。
イミシブルディスコードは「自立」や「自覚」を強く意識するようなストーリーでした。ザムザという楽曲も、その世界観をそのままに緻密に描かれた楽曲であるように感じられたのです。(というオタクの妄想です)

蛇足

①「夢」や「鏡」というモチーフを軸に、「灯のミラージュ」や「イミシブル・ディスコード」というストーリーを紐解いていってもかなりの面白さがあると思います。もうこれ以上書くことは控えますが。特にシャガの花におかされたりんごが、割れた鏡にうつすと綺麗なりんごになっている、その様子が描かれたジャケット(イメージ画?)はひどく象徴的で、なんと素晴らし表現だろうと唸ってしまいます。まふゆも奏も、自身の怒りや傷をちゃんと自覚はできていないけれど、でも、なにかがおかしいって気づき始めている、今までのバランスが崩れかけているような、そんな感じがよく出てるように思いました。

②「ザムザ」、MVめちゃくちゃよかった。
ムカデや芋虫みたいな地面を這う虫になれば殺されて食われてしまうけど、羽ばたく蝶になっても標本にされて(見世物、親にとっての装飾品)しまう、みたいな、行き場のない絶望みたいなの、すごく見ててつらかった(小並感)
女の子の髪が虎の尻尾っぽいなって最初見たとき思ったんだけど、ツイッターで検索したら同じこと思っているひと1名みかけたので、同じ妄想してる人いて心強かった。笑

③山月記のなかで虎になるシーン(虎であることに気づくシーン)、兎を殺して気づくんですよね。よりにもよって「兎」。そのことを考えると今後のイベントの展開を予想するのが億劫になったので一回思考を止めました。オタクの考えすぎ。そう信じたい。これ以上ニーゴのみんなを絶望させないで。

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