【映画】ドライブ・マイ・カー

ロードムービーかと思ったら違うのか。登場人物も話も欧米映画みたいで、別世界の物語のよう。とくに共感するところなく何も刺さらなかった。意味ありげなダイアログを、みなが平板に話す。劇中劇でもそうなんだけど、なんなんだ? な3時間。ふーん。丁寧に、よくつくられてる映画だな、ってとこかな。

冒頭の、妻との関係の話が30分ぐらいあって、ここでやっとオープニングタイトル。役者名につづいて主要スタッフの名が大きく表示されるのが日本映画には珍しい。で、こっからが本題、なのか。

演劇祭に招聘され、愛車で広島に。上演予定の『ワーニャ伯父さん』に応募した役者の選考〜本読みなんかが始まる。妻・音の不倫相手の1人らしい高槻も参加し、でも、話は淡々と進んでいく…。最後に事件が発生するけれど、それまでは淡々と、いささか間延びしつつ、じっくりゆっくりと話は進む。それなりに見ていられるのは、出来事よりも、人間が描かれているからだと思う。とはいえ、この映画はいろんなところで日本映画らしくない。結婚して25年ぐらいたつ夫婦が出がけにキスしたりする。しばしばセックスする。海外映画では半ば義務的に同じベッドに寝て肌のふれ合いを日常的に行う様子が描かれるけれど、あれを日本人がやっている。薄気味悪い。家福の、ドライバー みさき に対する言葉遣いも、使用人に対するようで命令口調。ですますを使わない。このあたりも、職業による階層を当然のように行う西洋風に見える。そして、家福と みさき が背負っている、自分は人を殺した、という背徳感と贖罪意識。ある種の運命と、神に課された重荷を背負って生きる、ようなところがキリスト教的な気がしてしまう。そして、全体的に情緒を排した物語展開と演出。『ゴドーを待ちながら』『ワーニャ伯父さん』ともに見てないから知らないんだけど、描かれるテーマやエピソードも、映画と重なっていることは確かで。ハナから海外ウケをねらったんじゃないのか? そもそも原作が村上春樹というところからして、透けて見える。

だからなのか、この映画に描かれる出来事にはあまり惹きつけられないんだよね。みさき の、嫌いだった母親を見殺しにした、という罪悪感も、そんなの仕方ないじゃないか、と思える。二次災害を考えたら、そのせいで自分を危険にさらすことになるし。それでも助けに行く、というのは、これまた海外映画でよくある設定だよね。家福の、帰りが遅くなったせいで、くも膜下出血で倒れた妻の発見が遅れた、という罪悪感も同じ。仕方ないじゃないか。ともに、積極的に手を下したわけじゃない。

彼らと対照的な殺人が、役者の高槻によって起こされる。とはいえあの暴力は取ってつけたような攻撃性で、対称性を見せるためのような感じなので、話の中で浮いている。それに、スマホで撮られて激怒する高槻の性向は一度予兆を見せられているので、次に喧嘩、そして結末も、ああ、やっぱり、としか思えない。そして、ニュースで相手が死んだ、と知っても動揺せず、警察が来ても堂々としている様子が、これまた西洋映画の根っからの悪党のようで、記号的でもあるし、異様な印象しか持てない。まさに悪の象徴、ユダのような感じだ。で、振り返るに、本読み現場にいたのは何人だったっけ? 家福と演劇祭のスタッフ2人をいれて10人ぐらい? そこに みさき、妻の音も入れたら全部で13人ぐらいにならないか? キリスト+12使徒にならんかな。曖昧…。

失った者たち、という視点もある。家福と妻は、幼子を失った。家福は、さらに妻を失う。みさき は、若い頃は母親によって自由を奪われた。その母親を、災害で失う。韓国人女優は、言葉を失っている。こうした空白を埋めていく作業、という見方もできるかも。一方で、高槻は奪う側の象徴として登場する。家福の妻を奪い、ワーニャという役を奪い、他人の命を奪い、芝居までも奪おうとした。

そう。全体に、記号的なんだよ。人物も出来事も、その出来事に対する反応や対応も、記号的。その記号に肉付けをして物語をつづっている感じがする。だから、共感できるような人物も登場せず、感情的に揺さぶられることもない。なぜなら私は、聖書にしばられた生き方をしていないから。

家福は、妻が見た夢を聞き、それを記憶する。再度寝た妻は自分の夢を忘れていて、家福から聞かされる。その物語をベースにしたドラマで、人気脚本家になっている。自分でも、「このつづきがどうなるのか知りたい」というぐらいで、まるでシャーマンのよう。妻の話を聞くにはセックスし、ともに寝なくてはならない。50男には激務ではないのか。

そのうえで、妻はドラマの出演俳優とのセックスを続けていた。それが何のためであるかは分からないけれど、性的行為を通じて創作を維持してきた、ということなのか。家福は妻の浮気に気づいていた。ウラジオ行きが延びて家に戻った時、家福は妻の浮気現場を目撃するけれど、浮気はあれが初めてではないのだろう。とはいえ、妻が別の男と寝たベッドで寝られるか、という問題もあるけどね。気にしないのかな。

家福は、妻を愛していて、妻が浮気をしていても離れて行くことはない、と確信していた、のだろう。とはいえ、妻の心が自分を離れている時があることを、意識していた。ここに怒りはないようで、そぶりも見せず、妻に尽くし続けていた。日頃、クルマの中でしていた『ワーニャ伯父さん』のセリフの稽古は習慣なんだろうか。だってセリフは完全に入っていて、いまさら必要はないはず。それでも行っているのは、妻の音源に会わせて自分のセリフをしゃべり、空白を埋めていく行為は、夫婦という関係性を完成させていくものだったのかもしれない。それで心の安寧を確保できていた、と。

とはいえ家福は、『ワーニャ伯父さん』を演じる中で、そのなかのセリフに妻の裏切りや、それに対する彼の感情が重なるようになっていく。自分は妻を愛している。けれど、妻を憎み始めている。その両方の思いが心の中にある。『ワーニャ伯父さん』でワーニャを演じることが苦痛になっていた、のだろう。そんな家福にとって、妻が出がけに「後で話がある」というのは、不安=動揺だったとねか。何を言いだされるのだろう。自分は捨てられるのか? とかなのか? でも、夫婦間で貢献してるのは、家福が妻に、であって、妻は家福にたいして貢献していないよなあ。まあ、そんな妻でも、家福にとってはかけがえのない存在だったのか。このあたりは、理解できないが。その不安があって帰りが遅くなり、発見が遅れた、と。

てな経緯が冒頭30分にあって。広島の演劇祭で福家は、もうワーニャを演じることを止めている。演じれば妻を思い出し、妻への想いや憎しみまでも蘇ってくるから、なのか。それで、ワーニャ役は高槻にした、と。

ここからの話は本題のようでいて、実はオマケのようなものだ。稽古の連続とか、高槻と韓国人(?)女優との関係とか、唖の女優と、夫であり演劇祭のプロデューサーの話とか。そういうのは物語を膨らませているだけ。重要なのは、みさき という人物の来歴を少しずつ見せていくことだ。

みさき は、23歳の娘なのに質素な外見で、ドライバーに徹して家福と距離を取る。仕事に集中し、ちゃらちゃらしない。せいぜい、「芝居の稽古が見てみたい」と漏らしたのと、あと、たまたま同乗した高槻だったか(忘れた)、の話を「嘘はないと思います」と言ったぐらいか。

彼女は、家が土砂でつぶされ、母親が亡くなったときにできた頬の傷を、そのままにしている。忘れないため、というけれど、このスティグマもまた、キリスト教的なものだよね。

なわけで、不良役者高槻は韓国人女優と仲良くなったのかな。で、クルマで事故って練習に遅れたり、まあ、この映画の面倒を一気に引き受ける。で、再度、スマホ撮りにあって、相手を殴りつけて、死なせてしまう。誰がワーニャを演じるか。だれもが家福に期待する。しかしふんぎりがつかない家福は、みさき に、北海道の君の家が見たい、という。それで家福のクルマで、みさき の運転でたどりつき、雪の中に顔を出している残骸に花を手向ける。このとき、家福は、生きていれば同い年だった娘と同じ年齢の みさき を抱きしめる。幼子を亡くした過去があり、生きていれば同じ歳。失った空白を、みさき が埋める、みたいなところがある。とはいえ他人である若い娘を抱きしめるというのも、日本映画にはあまりないよな。西洋的親近感、同情、慈愛の表現だよな。

この北海道行きで家福は吹っ切れて、ワーニャを熱演。芝居は大成功。らしい。なんで吹っ切れたのかは分からない。

最後、みさきは韓国で暮らしている。韓国との縁は、あの演劇に参加したプロデューサーと唖の妻なのか。犬も飼ってたから、そうかな。日常会話はできてる感じ。クルマは家福からもらったのか? 家福と同じクルマを買ったのか? 知らんけど。しかし、韓国でいったい何をしてるんだろう。

・人を殺した、という背徳感から抜け出す話、なのかな、これは。でも、家福も みさき の場合も、そこまで悩む必要があるのかどうか。

・妻、音のシナリオは、セックスから生まれる。というのは面白いけど。いかにも村上春樹的か。家福が聞かされた妻に話は、「女子が男子の部屋に侵入、モノを盗み、モノを置いてかえる。オナニーはしなかった。けれど、ある時、自慰にふけろうとしたら階段を上がる足音…」というところまで。と思っていたら、そのつづきを高槻が聞かされていて、「やってきたのは本物の空き巣。半裸の娘を犯そうとするが娘は抵抗して空き巣を殺し、逃げる。翌日、娘は男子に真実を話そうとするが男子は何事もなかったように登校してくる。不審に思った娘は男子の家の前を通るが変わったのは防犯カメラが付けられていたことだけ。他は一切変わっていない。あの空き巣はどうなったのか? 娘は防犯カメラを見る」という内容を家福に話すんだが、どういうことなんだろう。このときかな、みさきが「嘘を話しているように思えない」と言ったのは。

・みさき の話で興味深かったのは、母親が二重人格で、ときどき4歳ぐらいの幼児に変貌するという話。これを家福に当てはめてみると、妻の変貌ぶりに当てはまるかも。日常的には家福のよき妻でありながら、家福の知らないところで性をむさぼる女に豹変する。その二重性を連想してしまう。

・愛車にこだわる。自分で運転したがる。他人に運転されたくない。というのは、愛車=妻と考えればいいんだろうか。それだけ家福には不可分な存在だった。しかし、自分だけが運転(性交)してきたつもりだったのが、妻は他人にも運転(性交)されていた。自分が支配してきた妻=クルマを相乗りされていて、でも、妻を手放したくないから許容してきた。しかし、妻が死んでしまったことで、こだわりが薄れてきた。芸術祭でドライバー みさき を紹介され、たじろぎはしたけれど、みさき の腕前を見て、運転をまかせるようになる。妻はもう、いないのだ。自分だけが運転する必要は、ない。そうやって家福は、妻との精神的決別を果たした。もし、みさき が韓国で乗っていたクルマが、もとは家福のものであったとしたら、家福の妻へのこだわりは無くなったということの証なのかも知れない。

・多国籍語で芝居をする、というのは原作にあるのかな。変なの、としか思えない。

・妻の音役の霧島れいかは、『運命じゃない人』の娘か。いつのまにか色っぽい女になってたのね。

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