他愛もない話

文体は文字を書く上で非常に重要な役割を担うと思います。芥川龍之介は普段の我々の生活ではほとんどそんな書き方はしない独特な文を書き、国語の教科書に出てくるような純文学を好むならば彼の作品は読むべきでしょうね。
というわけで文体を変えて今日はダラダラしましょうか。

なんの話をしましょうかね。
長らくここから離れていて書き残したいことが多くあるが、述べつ幕無しに文字を書き連ねましょうか。しかしそれでは話にまとまりがなく稚拙な文になりそう。
稚拙で無知な文は私に合っていると思う。稚拙で思いつきで無知なことが窺えるような文こそがいい。もうすでにそのような書き方なのだが。

昨日滝を見に行った。観光地として売り出すのにこれほど見晴らしの悪い展望台が他にあろうか。木々が光と視界を遮り、下から見上げる滝は暗く、展望台からは木しか見えない。その上曇り空では記念に写真は撮るものの言わずもがな感動はなかった。腰を痛めてまでその風景に感動を求めてきた私が憮然とする様を、友人は何も言わずについてきたのに憮然とする私の様を想像してほしい。
天然記念物が無意識に生き物に限局するのは動物組合の陰謀か、あるいは私の無知に由来するものか。
この滝について地元の人間曰く、天然記念物に指定されて以来自然に手を出すことができなくなっているらしい。当然展望台や直接滝を邪魔する木々を伐採することができない。展望台を持ち上げて何とか事なき済ます始末だ。逆に上から滝を見下ろす形になっていて滝独特の爆発的な迫力を感じない。上から見下ろしてるからだ。
理想は等位なのだが、そもそも上から見下ろすにしては遠すぎるのだ。これでは滝を日本の名勝の名が聞いて呆れる。木が邪魔で見栄えが悪いとは本末転倒。憤懣遣る方無い。
私がむずかるわけが他にもある。無垢な私は茂みを見つけると動くものを追いかける猫が如くもはや本能のレベルで突き進む。目の前を過ぎるものが一体なんという生き物なのか、その時の動体視力は比喩ではなく猫のレベルとたまに思う。
そんな本能の恩恵で喜ばしく私の足は大きく腫れ上がり蚊などと可愛らしい痒さとは比較にならない見事なものを頂いた。
もしこの観光で私が得たものがあるとすれば先ほどと同じ地元の人間の話では、全く興味のなかった私は内容を全て忘れてその時の自分の発想以外記憶にないのだが、その土地には誰かが祀られてるらしい。会話がかみ合わないほどに無知だった私は忸怩たる思いで今後の観光は、その土地にゆかりある歴史は調べて回るべきと考え直した。それが昨日の話。

今日は焼肉の気分ではなかったのだが、食事において金を払えばその対価が得られるという反故な常識が働いた。無知だ。
最近、食はその人を形成する重要な要素だと助言をいただき殊勝にもその言葉を守っている。しかしながらそんな陳腐な考えは人生において重要な、5歳くらいから常にそんな言葉は聞いているのだが、この20代の貴重な時間と費用をそんなものに割いてよいものかという意見も聞く。
私はそれを否定したい。さながら授業に価値はないから家で勉強したいと嘆く受験生のような意見だ。どうせ勉強する人間などごくごく一部で結果が同じならそんな反則的なことをせずとも素直に授業に出席すればよい。人生においてこのパターンは天文学的数字で存在するのではと、いやむしろ人生自体このお定まりごとなのではないかとふと思う。であるならば人生自体に価値はなく個人のニューロンの電気信号の問題なわけだ。
肉は旨かった。私の食べ方が悪かった。食べ方が悪いと、ここまで不出来な味に仕上がるものなのかと辟易した。これまた私の無知が作為し、味を崩壊させてしまった。
必要な駒があれば最大限に彼らを生かしてあげたいと思うのは当然の性で、自分に結果が返ってくる形なら例外はないと思う。ちなみに私は子供たちに己の知識を与える仕事をしているのだがここで言うのは、どのような教え方がいいかという話であって、つまり頭の中でどの知識を選択するかであって、子供たちを最大限の個人にするという趣旨ではない。もしかしたらその知識の選択には見えていない5番目があるかもしれないが、焼肉の食し方のよう私には見えていない。知らないからだ。
無知は様々な場面で我が身を襲う。私はあまりにも無知だが、多かれ少なかれ皆さんにもそんな経験はあると思う。ここに文を起こしながらどう話を完結させようか無知ながら考えたが、私に相応しい終わり方である。

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