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定期的に全てが駄目になる瞬間があり、今日はそれがそれが20:32だった。

私には才能がない。才能がないと言うことにひたすら打ちひしがれて生きている。聞くところによるとこの世のほとんどの人間には才能がないらしいが、みんなどうやって生きているんだろうと本気でわからないでいる。なんで才能が無くて平気でいられるんだ。

今日は好きな先輩と大喜利をしに行った。東京には毎日大喜利イベントを開催している狂ったスペースがあり、興味を惹かれて参加した。そこでは普通に回答するだけの大喜利の他に、大喜利対決も行われていた。大喜利対決?自分で言っていてよくわからない。大喜利対決ってアマチュアでもやっていいものなんだ。
大喜利対決にはいくつか対戦形式や採点方式があるらしいが、今日は「印象審査」と呼ばれる審査方式で対戦を行った。1ブロック6人で、あるお題に対して4分間回答を行う。そして回答終了後に誰がよかったかを観客が投票する、という方式である。
普通にぼろ負けをした。びっくりするくらい負けた。はたから見ていて「こいつになら勝てる」と思っていた人と同点で負けていた。

なんかその点数を見てからしっかりと体調が悪い。自分のことを面白いと思ったことは無いはずだが、「お前の発想は面白くない」と突きつけられてショックを受けているということは自分の回答を面白いと思っていたんだろうなと思う。いや、面白いと思っているから回答として出しているわけで、やはり自分の発想の貧困さとか、表現力の乏しさとか、そういったステータス値に対して下された評価があの点数だったのだ。

私は広く浅く色んなことが好きだ。大喜利も好きだし、MCバトルも好きだし、演劇も好きだし、小説も好きで、スマブラも好きだ。そしてそれら全てに一度手を出している。しかし一つも目に見えた結果にはなっていないし、今後も結果は出ないだろうという直感がある。将来成功する人物の下積み1日目だと感じたことがない。冒頭の話に戻る。私には才能がない。

才能がなくても楽しめればいいじゃん、と思う。けどそれも私には難しい。現代社会では一流の才能がネット上に溢れており、人々はそこで審美眼を養っている。私も例外ではない。現代人は「良いものを良い」「悪いものを悪い」とジャッジする能力だけがどんどんと肥えている。私も例外ではない。私が私を客観視したときに、肥大したジャッジ能力と自意識が自分の才能の無さを責め立てる。「つまんないやつは演劇辞めろ」とは大学2年生の頃にぶつくさ呟いていた言葉だが、それが自分に刺さっていることは誰よりも自分が知っていたのである。「つまんないやつ」かどうか、評価対象には全てが含まれる。私も例外ではない。このような状況下で一体何を楽しめばいいのか。私のアンチは私だった。アンチの言うことなら無視すればいいが、私は私から逃れることができず大変難儀している。

私は昔から才能に憧れており、常識では計れない振る舞いに魅力を感じる人間であった。「頭がおかしい」とは褒め言葉であった。自分には才能がないので自分のことは嫌いだし、魅力なんて当然ない。ネガティブな考えを表明すると「そんなことないよ」と言ってくれる人がいるが、「そんなことないよ」待ちではなくこれは客観的に自分の尺度で自分を計るとそうなる、という事実でしかない。1時間は3600秒だし、1フィートは0.3048mだし、自分は欠点ばかりで魅力がない。ただそれだけのことだ。

「私が」「私は」と一人称だけが並ぶこの日記にも嫌気が差す。結局私が誰からも愛されないのは私が自分のことしか考えていないからだ。文章が下手なのは読んでいる人のことを考えられていないからだし、スマブラが上達しないのは相手の動きに合わせられないからだ。自分のことで手一杯で、誰かの心情を理解しようとするとオーバーヒートしてしまう。詰みです。いつからこうなったのか分からない。ずっと前からこうだった気もするし、つい三日前までは大丈夫だった気もする。とにかく現状が「こう」であり、おそらく明日も「そう」なんだと思う。

「才能」のことを考えるといつも気が狂って発狂しそうになる。もしもピアノが弾けたなら想いの全てを歌にしていたが、生憎ピアノは弾けないので想いの全ては私の中に蓄積して残留する。いつしか爆発して臓器の内側から全部を破壊してどこかに飛び出していくんだろう。多分その日は遠くない。


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