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死ぬ理由への憧憬

※注 本記事はあくまで筆者の個人的な価値観の一側面であり、自死を推奨・賛美する意図はありません。


こんにちは。朝霧です。
やや不穏なタイトルになってしまいましたが、考えていたことをつらつらと綴っていこうかと思います。


最近、停滞している。何がどうという訳ではないが、何事に対してもいまいち気力が出ない。趣味にも気が乗らない。まだ読んでいない本が積み上がっているのに読む気にならない。趣味の一次創作も書く気にならない。
こういう時は、何にしても、これをしてどうなるんだろうという考えが掠めてしまう。そして、その考えはそのうちこう変化する。
そもそも生きていてどうするんだろう。
いつか死ぬのに。

これを読んでいるあなたは何か生きる目的と呼べるものがあるだろうか。
私は、今、最大の生きる動機は「惰性で続けてきた生きる営みを変えるのがめんどくさいから」「死ぬ恐怖を振り払えないから」である。これが今の私の二大動機だ。ずっと同じ環境にいた人が、些細な不満がありながらも変化をためらうような心理と同じだ。人生に大きな影響を与えるような選択は、簡単には取れない。人は変化を恐れる。ありふれた心理ではないだろうかと思う。
そんなありふれた心理で、惰性で、生き続けている。自分で自分の命を絶つ行為、いわゆる自死も、それなりに覚悟、あるいは勢いがいるのだ。
でもだからこそ、思う。
それだけのパワーが必要となる行為。
自分で自分の人生の終わりを決める行為。
それってある意味、尊いものでもあるな、と。

私がそう感じる理由は、どんな自死も、死ぬ理由となった感情への殉死という側面を持っていると思うからだ。
人間はその進化した高機能の脳ゆえに、自ら進んで死を迎え入れるという結末と、その方法とを編み出した。そして、実際それを実行した人々は歴史上数限りなく存在する。人間は生きるか死ぬかを選ぶことができるのだ。
しかし、自分は生きている。少なくとも、今この瞬間は。
なぜか?
………………………………。
私の場合は上述した通りである。言葉にすると大した理由でもない。悲しくなるぐらいだ。それとも案外それが動物の生存本能というものなのだろうか。
でも、人間はそれに抗える高度な哺乳類ではなかったのか。
それに引き換え、自死という道を選んだ人たちには、死を選ぶだけの何かがあったのだろう。それは決して本人も望んだものではないかもしれないが、例えどれだけ暗い感情でも、命を捨てる決断をするに値するものだったという点では尊くも思えるのだ。
私はこれまで、死ぬかと思うくらいの悲しみや辛さを経験してきたはずだが、結局死を選ばなかった。そして惰性で生きるうちに時間がほとんど洗い流していった。言いかえればその程度だった。

この先の人生を全て捨ててもいいほどの感情は、この先の人生の価値と等価値だ。
そうした感情を見つけられるなんて、なんて美しいことかと思うのだ。
自死とは世間では忌避される行為ではあるが、私は一種の高潔さを感じる。

実際のところ、そうした強固な意思で亡くなっていった人ばかりかはわからない。現実には自死を計画・実行する人の多くは精神疾患を患っていたとも言われているようだ。もし、そうして亡くなった人たちがちゃんとした治療を受けていたら、そうはならなかったのかもしれない。
しかし、ありえたかもしれない可能性を捨てて別の可能性を選ぶのもまた人生に必要な営みの一つである。誰しもそうして「かもしれない」人生を捨てて今の生活をしている。
そして、例え一瞬であっても、これから先の最大の可能性を捨ててその時の感情に殉じさせたものを、もはや疾患ではなく信念と呼んでもいいのではないか。それが自死を遂げた故人への唯一の手向けではないだろうか。私はそう思う。
だから、自死遺族である方々は故人の死に対して自分を責める必要は全くないと思う。もし、そうした人がこれを読んでくれているなら伝えたい。それはただ故人の意志によって為されたことであり、残された人の責任ではない。
私なぞに言われても………という反応しかないかもしれないが。


私もいつかは命を捧げるに値するものが見つかればいいのにな、と思う。
それが幸福感だったら言うことない。もうこれ以上幸せになりようがないから死んでもいい、という理由で死ねたら文句なしだ。
しかし、その一方でこうも思う。こうした考えを持つのも惰性で生き続けられてしまうような恵まれた環境にいるからだろうか。
そんな人間には見つけられないものだろうか。

人生何が起きるかわからない。考えても仕方がないのでまずは日々の生活を大事にしなくては。
死ぬまでは、あるいは死ぬ勇気を持つまでは、生きなくてはいけないのだから。

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