ひかりより速くゆるやかな、くらやみの速さはどれくらい ~アグネスタキオン育成シナリオの特異性と「狂気」について

(デデッデッデデッ デッデー↑)(例のイントロ)

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 あれはタキオンを初めて育成していたとき――

(ははあ、傍迷惑なマッドサイエンティストだけど内には熱いものを秘めているキャラかあ、確か元馬が故障であっという間に引退したはずだけど、それをこういう形でシナリオに落とし込んでくるわけね、なるほどなるほど――ん?)

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 トレーナーに電流走る――!!

 おまっ、お前、その性格と目つきで萌え袖白衣!!!!????? 萌え袖白衣と申しましたか!!!!!??????? は????? えちょっと待って????? ねえ待って??????? なんでそんなダボダボの白衣着てるの????? 効率厨の極みのくせして????? そんな邪魔くさい袖をダボダボさせてなんなの????? なにがしたいの????? これも実験???? 実験なの???? 自分の性格と服装の認知的ギャップが生む他者の感情変化の研究なの????????????? こんなところでもトレーナー君はモルモットにされてるの????????? ねえちょっと待って???????? 待って?????????

 勝負服着せてぇーーーーーーー!!!

 靴ロンダリングで貯めたサークルPtを捨てて、生まれ変わったタキオンのピース、女神像を叩いて砕く、モルモット君がやらねば誰がやる

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 こうしてまたひとり、世界に虹色に輝くモルモット君が生まれた――。


 というわけで毎度どうも、アグネスタキオンのモルモット君です。今回はモルモット君としてタキオンについて語りたまえよ君、というリクエストをいただいたのですが、しかしタキオンのシナリオについて今さら自分が何か語るべきことが残っているでしょうか?
 もちろん、タキオンの育成シナリオの出来の良さについて語ることならばいくらでも可能です。タキオンという馬名から理系キャラというわりと安直な発想を、「ウマ娘の肉体の限界を追及するマッドサイエンティスト」と解釈して、故障による早期引退という史実を尊重しながら乗り越えるシナリオに落とし込む造形は抜群によく考えられていますし、『ウマ娘』の世界では表現しにくい「種牡馬としても大成した」史実を、「自分の脚が壊れたときのために別のウマ娘に可能性を託す《プランB》を用意しておく」という形で表現したのは脱帽という他ありません。
 しかしまあ、このあたりは既に散々語られているところでしょうから、わざわざ今頃詳述することもないでしょう。

 さて、じゃあ他にどんな切り口があるか――と考えたとき、浮かんだのがタキオンシナリオにおける「狂気」という概念についてでした。
 そのシナリオにおけるタキオンのトレーナーがある意味でタキオン以上に常軌を逸しているというのは、私たちタキオンのモルモット君になったプレイヤーの共通認識でしょう。タキオンにどんな無茶振りをされても付き合い、身体が発光する怪しげな薬を何度飲まされても懲りることなくタキオンについていく彼もしくは彼女の熱意は明らかに常人のそれではありません。『ウマ娘』のトレーナーはウマ娘自身の意向、やりたいことを尊重する傾向が強いとはいえ(バクシンオーのトレーナーについては以前の記事を参照)、タキオンから直々に「狂った色の瞳をしている」と言われるモルモット君の入れ込みぶりは余程のものです。
 もちろん、そういうトレーナーでなければタキオンにはついていけませんから、あのタキオンを肯定して支えられるトレーナーという時点でこういう造形になるのは必然ではあるのですが――。

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 タキオンのシナリオを「実験と論理だけを愛するマッドサイエンティストが、トレーナーとの関わり合いを通じて、最終的に人間の感情の肯定に向かう」――と要約すれば、これはたいへんにベタな展開です。
 しかしタキオンシナリオにおけるこの展開は、「他人を拒絶して自分の殻に閉じこもった子供が善良な大人の導きでただしい社会性を獲得する」というようなビルドゥングスロマンの文脈ではありません。だいたいにしてタキオンとトレーナーの力関係は明らかにタキオンの方が上であり、トレーナーはタキオンが往く我が道を必死に追いかけていると言った方が正確でしょう。主導権を握るのはタキオンであり、シナリオにおいてどんなレースに出るか、トレーナーは提案はするものの、決定権は常にタキオンにあります。タキオンはただ、自分に入れ込むトレーナーの熱意から、自分の目的に合った部分を選んで取りだして受け入れているだけあり、結果的にトレーナーの熱意がタキオンを動かしたとしても、それはどこまでもタキオンの主体的な選択の結果です。
 そして、このタキオンを動かしたトレーナーの熱意を「狂気」と表現して憚らないところに、タキオンシナリオの卓抜さがあります。

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 そう、タキオンの育成シナリオの根幹は、スポ根ものでありながらアンチ・ビルドゥングスロマンであることにあります。育成シナリオの3年間を通して、タキオンは「変化」はしますが「成長」はしません。人間の感情に興味を持ち、声援が与える力を認識し、ライバルの必要性を知りますが、それをことさらに人間的成長として描くことはなく、タキオンの本質は傍迷惑なマッドサイエンティストのまま変わりません。タキオン自身がそうした自分の変化を常に観察者として冷静に見て分析していることで、本来「成長」として描かれるはずのそれは「興味深い」という言葉によって常に相対化され、タキオンの研究者魂へとすり替えられていきます。
 そして、ここがたぶん一番大事なのですが、タキオンは「レースでの勝利」そのものを「目的」としていません。他のあらゆるウマ娘が「レースで勝つこと」を目標として切磋琢磨している中で、タキオンが見ているのはもっとずっと先の光景です。タキオンにとってレースでの勝利は、ウマ娘の肉体の限界を目指すという自分の研究と実験の副産物、せいぜいが証明手段のひとつに過ぎません。だからトレーナーがつかず退学寸前まで追いつめられても動じることはありませんし、周りから何を言われようと気に留めることもありません。アプリOP曲『GIRLS' LEGEND U』の「キミと勝ちたい」という歌詞に象徴される、『ウマ娘』という作品全体を律する価値観とは異なる論理でタキオンは動いています。
 そんなタキオンの特異性、他とは全く異なる価値観で動いているタキオンの行動原理が理解できず、トレーナー、トレセン学園関係者、メディア関係者、ファン、そしてマンハッタンカフェといった周囲の者たちは戸惑い、振り回されることになります。
 こうしたタキオンシナリオの物語構造は、主人公=ラスボス型の物語として分類できると思います。何を考えているのかが表に出にくく、物語全体を通して本質的な意味では変化しない――多少の内面の変化はあっても根本的な部分は最初から最後まで一貫して変わらない、超越的な主人公に振り回される周囲の者たちの物語。要は『アカギ』みたいなもので、タキオンが赤木しげるならトレーナーは南郷さんや安岡にあたります。請われればわりと饒舌に内心の種明かしをしてくれるけれど、根本的なところで行動原理が他の人間やウマ娘と異なるため、しばしば意味不明な行動を取り、周囲の者はハラハラしながら見守ることになる――という意味で、実際タキオンと赤木しげるはよく似ています。ホントか?

 そういう意味では、ひょっとするとタキオンの育成シナリオは最も現実の競馬に近いものなのかもしれません。競馬は騎手や調教師がどれだけ努力しようと、結局のところ走るのは馬なわけですが、競走馬自身が何を考えているのかは人間にはわかりませんし、馬は自分を語る言葉を持ちません。どんな偉業や大記録の掛かったレースであろうと、馬には関係ありませんから、人間の都合などおかまいなしに暴走する馬もいれば、レースの途中でやる気をなくしてしまう馬もいます。ゲートで立ち上がって120億円を吹っ飛ばした不沈艦さんとか。
 人間の都合は、馬自身には無関係な話――。そういう風に言ってしまえば、オグリキャップのラストランも、トウカイテイオーの奇跡の復活も、ただ騎手を乗せて一生懸命走っているだけの馬に、競馬を見る者が自分の見たいドラマを勝手に重ねて勝手に盛りあがっているだけの話です。そういう意味で、私たちがただ走っているだけの馬に感情移入して声援を送り感動するのは、アリさんだのチョークだのぬいぐるみだのに感情移入して泣くウイニングチケットと何ら変わるところはありません。
 しかし、それこそが競馬の魅力であるとするならば――ただ自分の限界を求めて試行錯誤を続けているだけのタキオンに、トレーナーがその走りに勝手に夢を託して献身を捧げ、その振る舞いに勝手に反発していた観客がタキオンの走りに魅せられて勝手に声援を送るようになる様こそ、そんな周囲の価値観と論理とは異なるところにいるタキオンから見れば「狂気」に他ならないのでしょう。
 その入れ込みようが多少行き過ぎているとはいえ、トレーナーの基本的な行動原理は、あくまで担当ウマ娘をトゥインクル・シリーズで活躍させるという、この世界における(そしてタキオンを育成するプレイヤーにとっての)「常識的な価値観」です。しかしタキオンはその「常識的な価値観」を一顧だにせず、ただ自身の価値観に基づいた目的のために実験と検証を繰り返し、その副産物としてレースでの勝利がついてくるだけ。どちらもただ己の価値観に素直であるだけだとすれば、タキオンのハイライトの無い瞳に見つめられたとき、果たして狂っているのはどちらなのか――そう問いかけられてしまうことが、タキオンの危うい魅力なのだと思います。

 もちろんタキオンも、関心がないというだけでその「常識的な価値観」を否定しているわけではありません。自分に夢を託す他者の感情を「狂気」と呼んで相対化しつつも、自身の興味関心と方向性が一致するのであればその狂気に乗っかることを辞さない割り切ったスタンス。そうすることで自身の内面に生じる変化も逐一観察し相対化した上で、不合理な感情も自分の目的に適うのであれば研究対象として貪欲に取り込んでいくタキオンの、徹底した合理主義と自身の追及する目標へのぶれない姿勢。その筋の通った凜々しさに、私たちモルモット君は惹かれてやまないのです。

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 タキオン自身は何も変わらない。タキオンの振る舞いで変わるのは私たち、タキオンを見る者たちの目に映るタキオン像なのです。この性格で勝負服が萌え袖白衣だったり、いかにも私服なんか気にしなさそうなのに意外とオシャレだったり、全モルモット君が撃沈された弁当エピソードだったりと、タキオンがギャップ萌え概念の化身として造形されているのも、つまりはそういうことなのでしょう。光速を超える仮想上の粒子の、本当の姿はまだ誰にもわからないのです。

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 あーーーーーーーーーーーーーーーここすき(ウマーマンシリーズ)


 とまあ、これで綺麗に終わってもいいんですが……(綺麗か?)
 タキオンのウマ娘ストーリーで、個人的にとても気になるのが、タキオンが自身の行動原理をトレーナーに語るこの場面。

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 そう、そもそも「ウマ娘」って何だよ? という、本作において世界観の大前提としてカッコに入れられているメタな疑問に、ウマ娘が当然の存在であるこの世界の住人であり、自身がウマ娘でありながら到達してしまっていることが、タキオンのある意味で一番の特異性かもしれません。
 ところでタキオンは実験と研究のためならば、トゥインクル・シリーズへの出場というトレセン学園の存在意義を一顧だにせず、食事の時間すら惜しむほど時間と効率を大事にしています。そんなタキオンが、ウマ娘の肉体の限界を探るにあたって、車輪の再発明という時間の無駄を避けるため、ウマ娘についての先行研究を渉猟していないはずがありません。その上でのこの発言――。

「そもそも我々ウマ娘は、存在自体がいまだ深淵なのだよ、君」

 これはつまり、この世界においても「ウマ娘とは何なのか」という疑問に答えが出ていないことを指しています。もちろん我々の世界でも我々人類はまだまだ人体の神秘を解き明かしきってはおらず、「人間とは何か」「人類はなぜ存在するのか」という問いに確たる答えは出ていないわけですから、そういう意味ではこれは至極当然のことかもしれません。
 しかし、基本的に(作中に登場するウマ娘の描写においては)走ることしか頭にないウマ娘の中において、「ウマ娘とは何か」という根源的な問いに立ち至っている時点で、やはりタキオンは異質です。そして人間が「人間とは何か」を問うということは、つまりそれは自身がこの世界に存在する意味、アイデンティティを探求することに他なりません。
 タキオンがあれほどの熱意をもってウマ娘の肉体の限界を探り続けるのは、つまるところは「ウマ娘である自分とは何者なのか」というアイデンティティの探求なのだと思います。

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 これなんかプレイヤーの視点からするとものすごくメタな発言に聞こえるわけですが、育成シナリオ中盤でプランAを断念し、自分の脚を犠牲にしてプランBのためのデータを月桂杯で取ろうとするように、タキオンには自分の意識と肉体を切り分けて考えているようなところがあります。メンタル的な要素を過小評価していたのも、つまりはそのタキオン自身のアイデンティティの揺らぎ――「自分は何者なのか?」「今自分の意識が入っているこの肉体は本当に自分のものなのか?」「アグネスタキオンというウマ娘は本当に〝自分〟なのか?」という疑問の表出なのかもしれません。
 スピードの限界を求めようとするのも、自分の理論を自分の肉体で実証することで、自分の肉体が間違いなく自分のものだという確信が欲しいからなのだとすれば。そして自らの肉体の脆さを自覚した上で、計画を断念した場合のプランを同時並行的に進められるという潔いほどに割り切ったメンタリティは、このアイデンティティの揺らぎの証明になっているのではないでしょうか。

 だとすれば、タキオンは走る科学者というよりも、走る哲学者でしょう。
 そのタキオンが奇妙に執着するマンハッタンカフェは、〝あの子〟という彼女にしか見えないイマジナリーフレンドを己の支えにしています。

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 タキオンがカフェに執着するのは、目に見えないもの――仮想上の粒子タキオンのように、実在の不確かな概念を強固に信じて己のアイデンティティを託せるカフェのメンタリティが興味深いのでしょう。

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 タキオンの持ち得なかった要素とはつまり、実在する自分の肉体すら信じられないタキオンにとって、彼女にしか見えない、誰とも実在を共有できない〝あの子〟の存在を信じていられる、その盲信。だからこそ、秋の天皇賞を経て、有馬記念での対決のあと、カフェが仮想上の〝あの子〟と実在するアグネスタキオンという自分を重ねてきたことに、タキオンは驚いたのだと思います。
 それはあたかも、仮想上の粒子タキオンの実在を、カフェが証明してきたかのごとくに――。タキオン自身すら信じられなかった自分という存在を、よりにもよって実存の証明から最も遠いところにいたはずのカフェが肯定してきたことに――。

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 マンハッタンカフェがタキオンの〝特別〟であり〝ライバル〟であるのは、そしてカフェをライバルとして迎えた有馬記念が最終決戦の場に据えられるのは――マンハッタンカフェは、タキオンが確かに存在すると観測し、確定してくれたから。不確かな〝アグネスタキオン〟というアイデンティティを、唯一無二のものとして認めてくれたから。
 そう考えてみると、タキオンとカフェの噛み合っているんだかいないんだかわからないライバル関係に、理解のアウトラインが引けるような気もするのですが、はてさて。

 そういえば、タキオンが上述した自身の行動原理をトレーナーに語るウマ娘ストーリー第2話のタイトルは「ゴルディアスの結び目」。固く結ばれた誰にもほどけない結び目を、スパッと切り落としてほどいたという故事で、一般的には「コロンブスの卵」と近い意味で使われる慣用句ですが――。
 続く第3話のタイトルが「事象の地平面」とくれば、どうしても小松左京の名作短編「ゴルディアスの結び目」(1976年)を連想せざるを得ません。ちなみにこの作品の中には「超光速粒子(タキヨン)」というワードがちらっとですが登場します。

 この作品、ものすごく乱暴に内容をまとめると「少女の精神的外傷がブラックホールを生み出してしまう話」です。なんじゃそりゃという方は実物をお読みいただきたいのですが――。
 一般的な意味でなら「ゴルディアスの結び目」というタイトルは、誰に何と言われようと選抜レースに出ようとしないタキオンの頑なな態度を象徴しているのでしょうが、その問題はこの第2話の中でスパッと切り落とすように解決されはしません。
 しかし、小松左京が少女の心と宇宙の深淵を繋げたビジョンを幻視したイメージがここに重ねられているならば――。
 実験によって自身のアイデンティティを掴もうとするタキオンの心は、ウマ娘の存在という世界の神秘と繋がっている――という暗示なのでしょうか。
 いや、流石にそれはこじつけが過ぎるぞなもし。

 はい、話がまとまらなくなってきたので以下余談。
 タキオンの同世代で、タキオンが現役時代に打ち負かした相手には、ダービー馬ジャングルポケット(ウマ娘化された産駒にトーセンジョーダン)、ダート最強馬候補の1頭クロフネ(こっちはカレンチャンのパパ。現役では史上初の白毛G1馬ソダシの父ですね)などがいるわけですが、どちらもどうやらウマ娘化は望み薄の様子。同世代で唯一ウマ娘化されたカフェは弥生賞で対戦しているものの、このときのカフェは全くの無名で、タキオンのライバルとなりうるような存在ではなかったようです。
 短すぎた現役自体に蹴散らした主な同期が誰もおらず、いるのはタキオンの引退後に頭角を現したカフェだけ。そのカフェも全盛期は短く、菊花賞、有馬記念、天皇賞(春)とあれよあれよと長距離G1を3勝したあと、凱旋門賞で敗れて屈腱炎を患い引退してしまいました。
 ウマ娘のタキオンが育成シナリオの終了ギリギリまで「ライバルの必要性」に気付かないのは、ジャンポケやクロフネの不在が大きいのでしょうが、そんなタキオンも最後の最後の有馬記念でようやくカフェというライバルを手に入れます。史実と重ね合わせればその最終決戦にあたるのは、2002年有馬記念。同期でありながら全く活躍時期が重ならず、共に短い全盛期のままにターフを去ったためその力の全貌がよくわからないままの2頭が、どちらも史実では既に居なかった場所で互いをライバルとして認め合う展開は、これもまたひとつの夢の形なのでしょう。
 ……それはそれで、実際の2002年の有馬記念を勝ったシンボリクリスエス(タキオンの1歳下)がウマ娘化されていたら、不満そうな顔でタキオンとカフェを睨んでそうな気がしますが。あと2002年有馬記念はファインモーションとエアシャカールも出ているので(ファインはタキオンの1歳下、シャカールは1歳上)、特にシャカールが育成実装されたときには是非レースでも故障を乗り越えたタキオンと対決してもらいたいものです。

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