八葉と八犬士

『遙かなる時空の中で』と『南総里見八犬伝』

 『遙かなる時空の中で』(以下『遙か』と示す)は、2000年にコーエーのゲーム開発チームであるルビー・パーティーが発表した女性向け恋愛アドベンチャーゲームである。
 その概要は、龍神の神子と龍の宝玉に選ばれた八人の男性、通称八葉が「鬼」から京を守るという、平安時代の京都を思わせる異世界を舞台とする、和風ファンタジー作品である。そして、『南総里見八犬伝』(以下『八犬伝』と示す)は、曲亭馬琴が江戸時代に書いた八つの珠を廻る波乱万丈・勧善懲悪の物語である。尚、八犬伝が「勧善懲悪」の作品と取り上げられるようになったのは、江戸時代から現代に至るまでの思想の変化が関係する。
 元より現代人にはこの大長編小説を読むこと自体難解であり、原典が広く読まれていない。しかし、現在もこの作品が国民的文学作品と親しまれているのは現代語訳やダイジェスト版からの普及効果があるからであろう。また、馬琴が没した後、『八犬伝犬の草紙』『仮名読八犬伝』『八犬伝後日譚』等あやかり本がたちまち出版され、以後もその手の出版が後を絶たない。つまり人の手によって再構築され、また新たな解釈として広がり伝わったのが、現在の『八犬伝』である。それ故、馬琴の描きたかった『八犬伝』とは本来痛快娯楽の物語ではなく、教養小説や理想小説に近いものであったということを、ここで述べておく。
 さて、この『遙かなる時空の中で』と『八犬伝』の共通する点を大まかに言えば、「八」という数字と「宝珠」である。また「青龍」「朱雀」「白虎」「玄武」と、「仁義」「礼智」「忠信」「孝悌」という、八人を二人一組の四グループに分ける組み合わせ。更に見過ごしがたい点は、女性一人に対し、男性が八人というこの集合体である。しかし、この点で異なるのは、『遙か』において「龍神の神子」は「八葉」にとって守るべき存在であるのに対し、『八犬伝』で「伏姫」は「八犬士」を守る存在であることであろう。ただ八人の男性にとって一人の女性が「絶対的存在」であることに違いはない。加えて言えば、この絶対的存在には八人の男性以外に共通するモノがついている。それが『遙か』では「龍神」、『八犬伝』では「八房」という、異形のモノである。
 この二作品の共通する点を「八」という数字に着目し、考察することを、本論の目的とする。

八葉と八犬士と仏教

「八葉」とは何か
 「八葉」とは『遙か』における八人の男性の総称である。何故彼らは「『八』枚の『葉』」という名を与えられたのであろうか。この章では八葉の名の意味について考察を述べる。尚、『八犬伝』の「八犬士」の場合、「『八』人の『犬』の剣『士』」と捉えられる。また、里見忠義の八人の家臣「八賢士」に由来するという説もある。
 『デジタル大辞泉』 で【八葉】は、次ように示されている。
1、八枚の葉、または紙。
2、 八枚の花弁。特に、ハスの花の八枚の花弁を放射状に並べた形。また、その文様。
3、紋所の名。二を図案化したもの。
 慣用句としてみれば、次の二つが挙げられる。
【八葉の蓮】 極楽浄土にある、花弁が八枚のハスの花。八葉の蓮華。
【八葉の車】 網代車の一。車の箱の表面に八葉の紋をつけた牛車。大臣・公卿から地下人まで広く用いられた。紋の大小によって、大八葉車・小八葉車の別がある。

八葉の蓮
 2016年に開催された「十五周年記念『遙かなる時空の中で』展~八葉蓮華絵巻~」 には、はっきりと「八葉蓮華」と示されているため、八葉は「八葉の蓮」に由来するのではないか、と安直に捉えることはできる。「八葉の蓮」の意は前項に示した通り、極楽浄土にある蓮のことである。
 蓮の花、すなわち蓮華は、清らかさや聖性の象徴として称えられることが多い。そして、古代インドのヒンドゥー教の神話やヴェーダやプラーナ聖典などにおいて、特徴的なシンボルとして繰り返し登場する。仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされ、様々に意匠されている。また死後に極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって身を託すという思想があり、「一蓮托生」という言葉の語源になっている。
 極楽とは、阿弥陀仏の浄土である。極楽浄土に女性が生まれることはない。ただし天女はいる。『法華経』サンスクリット本の観世音菩薩普門品によると、極楽浄土では性交が行われない代わりに、蓮華の胎に子供が宿って誕生するという。
 八葉と八犬士が「八人の男性」で構成されるのは、上記の仏教に由来するからではないだろうか。そして「天女」とは龍神の神子と伏姫を指すのではないだろうか。話は変わるが、『遙かなる時空の中で2』では、彰紋が龍神の神子花梨のことを天女と称しているが、この呼び名も仏教の思想に沿ったものと考えられる。
 前の段落で龍神の神子は天女説を唱えたが、天女は一人とは限らない。弁天や吉祥天も天女である。この内のどれが龍神の神子で伏姫なのか断定することは出来ない。そして、複数存在するものならば、八人の男性に対し「一人の女性」という集合体ではなくなってしまう。
 そもそも『遙か』の主人公である龍神の神子は女性である必要はない。「神子」とは神に仕えて神事を行い、また、神意をうかがって神託を告げる者の事を指すため、これが男性であってもおかしくはないのである。しかし、遙かシリーズの龍神の神子は皆女性である。これの答えは、「八葉の蓮」に隠されているように思う。
 『フローラの神殿』 の図譜の解説には、蓮は「葉の模様が胎盤に酷似していることから『生み出すもの』の象徴となった」とある。「胎盤」と「生み出すもの」という言葉から連想されるのは、やはり女性である。極楽浄土に女性は生まれることはないと述べたが、この「蓮」自体が女性の象徴ではないか、とここに仮説を立てることとする。「一つの蓮が龍神の神子」であり、「蓮を構成する八枚の花弁が八葉」であると捉えれば、この男性八人に対し女性一人の組み合わせにも納得がいく。
 「蓮」と『遙か』で連想するのは、やはり『遙かなる時空の中で5(以下『遙か5』と示す)』の「蓮水ゆき」ではないだろうか。彼女の象徴物は「睡蓮」である。分類学的に言えば、ハスとスイレンは科も属も違う。今回は、彼女の象徴物の「睡蓮」ではなく、「蓮水ゆき」の名にある「蓮」から考察をする。
 印象的なのはやはり蓮水ゆきが「蓮の葉」の上に座っている『遙か5』のパッケージイラストである。一見象徴物である睡蓮の葉の上の様にも思える。しかし、蓮と睡蓮は葉の形が微妙に違い、双方同じ円形だが、睡蓮の葉には切り込みが入り、蓮には一切入っていない。このことを踏まえて、再度パッケージを見ると、蓮水ゆきが座っているのはやはり「蓮の葉」の上である。そして、蓮は「仏の台座」でもある。
 ほとんどの花は、花が咲き終わってから実をつけるが、蓮はつぼみの時から、すでにその花弁の下の台に実をついている。これは、皆が生まれながらにして、仏に成る性分を具えていることを象徴しており、華果同時として仏教では尊ばれる。この意味付けから、仏が立ったり坐ったりする台は蓮となったのである。その仏の台座に座る蓮水ゆきは、まさしく神力を操り世界を動かす神にも等しい存在と、暗に示しているのではだろうか。そして、このパッケージイラストで彼女が抱える「時空の砂時計」のオリフィスを挟んだ二つの空間こそ、「仏」である蓮水ゆきが治める二つの世界を表しているのではないだろうか。
 しかし、遙か5の世界の神は他にいる。更に蓮水ゆきはその神から蓮の花を与えられている。彼女の掌の上に蓮の花があるという事は、蓮水ゆきの手の上が極楽浄土と捉えられる。このことから蓮水ゆきは、二つの世界を神から託された使者であり、天上人とも捉えることができる。ここで、傍線部二から生じた龍神の神子は天女説が再度浮上する。
 『遙か5』は2011年にルビー・パーティから発売された、幕末の主に黒船来航以後の攘夷論の盛んだった時代をモチーフに作られた恋愛アドベンチャーゲームである。声優総入れ替えに加え、『遙か3』の源平時代、『遙か4』の古代から一気に跳んで幕末時代を描いたこの作品は、遙かシリーズの中で異色に富んだ作品である。発表当時、長くシリーズに親しんできたファンからは、急な変更に批判的意見も上がった。
 しかし、これは新たな遙か作品として非常に素晴らしい、元に還った作品だと考えられる。何故なら「八葉」の名の由来と考えられる「八葉の蓮」をそのまま主人公として持って来ているからである。つまり、蓮水ゆきは天女ではなく、「八葉の蓮の具現者」なのである。加えて言えば、八葉の名の由来については、発売当初から示されていたように思う。
 それが「清めの造花」である。これは「造花」としか語られていないが、明らかに蓮の花をモチーフとしている。この第一作目から張られていた伏線を第五作目にきてついに回収するというのは、遙かシリーズの再スタートを意味する上で、非常に重要な点だと感じる。
 さて、八葉と八犬士に話を戻そう。先述した「極楽浄土では性交が行われない代わりに、蓮華の胎に子供が宿って誕生する」という点は、八犬伝に通ずるものがある。何故なら八犬士は、伏姫と八房の性交なく生まれているからである。また、八房の情欲を転化させるアイテムとして、初期大乗仏教経典である『法華経』が登場する。これらのことから、八葉の蓮の件を含めて『遙か』と『八犬伝』には仏教的繋がりがあると見て取れる。
 しかし、八犬伝は仏教的考えではなく、儒教が元である。八犬伝は『三国志』や『水滸伝』を元にしているため、思想的には中国に寄ると考える。伏姫が首にかけていた数珠にも「仁義礼智忠信孝悌」と儒教における徳が示されている。しかし、この数珠には元々「如是畜生発菩提心」という文字が浮き出ており、伏姫と八房の死によって転じ浮かび上がったのが「仁義礼智忠信孝悌」である。
 動物が死んだ際、「如是畜生発菩提心オンボッケン」と唱えてから、大乗仏教の空・般若思想を説いた経典の般若波羅蜜多心経を唱えると良いという。「畜生」とは本来は仏教用語でいう動物のことで、「傍生」ともいう。付属している「オンボッケン」は「浄土変真言」といい、この世界にいながらにして、そのまま浄土に転ずるという意味の真言である。また八犬伝は真言密教から題材を取ったという考えもある。例えば、政木狐は荼枳尼天を思わせる。八犬伝は『三国志』『水滸伝』『封神演義』『平家物語』『古事記』等、様々な文献の引用から生まれた物語であるため、複数の思想が入り乱れていてもおかしくはない。

八葉の車
 仏教のシンボルとして、最も古く、また最も一般的に知られているのが法輪と蓮の花である。 蓮の花については、既に述べたため、次は法輪について述べる。
 法輪はダルマチャクラやダンマチャッカと呼ばれ、仏陀自身を表す時にしばしば使わる。また世界中で仏教を象徴するシンボルになっている。そして、法輪には八本の輻があり、これは八正道を表している。この法輪は「車輪」の様に見える。ここで私が何を思うかといえば、「八葉の車」である。この八葉の車は大きさに応じて大八葉車・小八葉車の別があると先に示した。
 「大八葉車」と言えば、八犬士の中で別格の位置にいる最高位の徳を意味した「仁」の珠を持つ、犬江新兵衛の異名は「大八」である。作中、新兵衛の名は色々な個所で「大八の新兵衛」と示され、幼名の「真平」とは別にこの「大八」という名が繰り返し登場する。
 大八の新兵衛は、八犬伝後半の物語の中心人物である。実名を真平と呼ぶ大八が、大八と呼ばれるのは、大八葉車から来た渾名であった。


 この孫を、大八と呼び侍るは、人の負せし渾名にて、片輪車といふ  謎なり。実は真平と名け侍り。(第三十七回)

 この新兵衛の祖母妙真のことばこそが、大八が大八葉車を指し、大八葉車が単純なことばの連想で「片輪車」を指している事を表白する。
 「片輪車」とは、大八が生まれついて左手を拳に握って開くことがなかったことを指している。左手先が球状に固まっている状態故に不具者と見なし、それをじかに「片輪」というのはいくらなんでも酷だから、「車」の縁で「大八」と渾名したというのである。また、大八初登場の口絵で、真平は大八の車輪を散らした着物を着ている。この着物の柄については作者馬琴の画稿からして、絵師へ明確に指定されている。「大八」への強いこだわりを立証する点である。
 八犬伝について研究をした高田衛氏は次のように述べる。尚、本文は高田衛氏著作の『八犬伝の世界』からの引用が多々あることを、先にことわっておく。

 各説あるけれども、馬琴が手にしたとおぼしき、『和訓栞』(安永六年刊)全編巻八に、
 くるま 大八といふは車輪に大八葉小八葉といふ事あるより名となれり
 とある。『和訓栞』にいう「大八葉小八葉」とは、車輪を形成するところの繋ぎ合わす七枚の厚板と小板をさすもののようである。また本来大八葉とは金剛界曼荼羅図に、八つの花弁状に描かれるデザイン図型を指した。車輪の八枚、または七枚の輪木がそう見えたのであろう。小八葉はそれに組み合わされる小型の花弁状のデザインであった。その一葉一葉に仏菩薩が座をしめるのである。この考察から、大八車の形状から来た大八の名は、聖なる八人の車座状の存在を示唆するのである。そのような名前の象徴性においても、大八の八犬士の中での代表的な別格性が認められるというものである。つまり、大八の名は名詮自性的である。

 大八葉小八葉の件で出てきた「金剛界曼荼羅図」であるが、「曼荼羅」とは仏教において聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表したものである。
 『八犬伝』は八犬士の働きによる関東幻想大戦の里見方の大勝利の後、「仁心善政」のユートピア=里見王国を実現した。作者は、これを霊山富山の伏姫神女を中心にした、「曼荼羅的世界の結像の形式」で書いている。

 須弥の四天神王を、当国安房の四隅に瘞めて、最も畏き平安京なる、将軍塚に擬へなば、十世の季まで動ぎなき、当家(里見家)御子孫の為に守護神に做るべし。又二十五の古仏、二十五の菩薩は、御封内当国なる、鋸山に案措して、堂を造らず其が儘に、分ちて件の山に瘞めん。(第百八十勝回中編)

 「須弥の四天神王」とは、八字文殊曼荼羅の文殊をとりまく八大童子の同心二重円の外廊の四隅の上下左右に配される、降三世、無能勝、大威徳、馬頭の四大忿怒明王の換骨奪胎である。この曼荼羅は、更にその外廓四方に二十四座の菩薩を配する。「両界曼荼羅」の胎蔵界曼荼羅を参看するならば、文殊院は文殊と八大童子の他に二十五菩薩から成る。したがって二十四菩薩は二十五と見做してよい。「鋸山に案措」された菩薩・古仏もまた、ロマン世界に、パノラマ風に施された八字文殊曼荼羅世界の華麗な集大成であった。
 比較として上げた「胎蔵曼荼羅」の中心に位置するのは「中台八葉院」であり、八枚の花弁をもつ蓮の花の中央に胎蔵界大日如来が位置する。このことから、八葉の形態は大乗仏教を表現した曼荼羅にも、関連性があるのではないかと推測できる。
 さて、須弥の四天神王の件で出てきた八大童子とは、八大金剛童子の略称であり、不動明王に随従する八種の尊像を童子形に造形化したものである。
 「聖なる八人の車座状の存在」とは、この八大童子を指すのではないかと推測する。
 使者である八大童子には、慧光、慧喜、阿耨達多、指徳、烏倶婆迦、清浄、比丘、矜羯羅、制た迦の諸童子があり、作例として鎌倉時代初期制作の金剛峰寺不動堂の彫像がある。 この八大童子を従える「不動明王」は、真言密教の教主「大日如来」の化身とも言われる。大日如来は先に述べた通り、「中台八葉院」の中央に位置する真言密教の教主である。六大日如来もまた蓮の上に座する。付け加えると、この明王は、五大明王の中心となる存在である。

五大明王
 五大明王とは、「不動明王」を中心に、東に配される「降三世明王」、南に配される「軍荼利明王」、西に配される「威徳明王」、北に配される「金剛夜叉明王」で構成された、仏教における信仰対象である。『遙か』を知る者にとって、不動明王を除く明王の名は、非常に聞き覚えがあるのではないであろうか。言わずと知れたことであるが、これらの明王は、『遙か』の作中に登場する「天地協力技」に取り入れられている。
 青龍召喚や朱雀召喚は八葉の二人一組の名を表す四神の名から来ていることが分かるが、何故東西南北に位置する明王の名が術に用いられるのかが、前々からの謎であった。おそらく、これらは「八葉の車」、延いては「曼荼羅」からきている術ではないであろうか。
 ここで新たな疑問が生じる。他の明王は東西南北に分かれているため、それぞれの四神と重ねることが出来るが、中心である「不動明王」とは何を指しているのであろうか。先程、不動明王は大日如来の化身とされたと述べたが、この大日如来は、神仏習合の解釈では「天照大御神」と同一視もされるという。
 「天照大御神」は日本神話に登場する神である。皇室の祖神で、日本国民の総氏神ともされる。『日本書紀』では建速須佐之男命が姉と呼んでいること、天照大御神と建速須佐之男命の誓約において武装する前に髪を解き角髪に結び直す、つまり平素には男性の髪型をしていなかったことに加え、機織り部屋で仕事をすることなど女性と読み取れる記述が多いこと、後述の別名に女性を表す言葉があることなどから、古来より女神とされている。

「こんな言い訳じゃ、光の比売神は岩戸を開けてはくれないんだろう?」

 この台詞は『遙かなる時空の中で4(以下『遙か4』と示す)』の常世の国の皇子、アシュヴィンの台詞である。もうお分かりであろうか。「不動明王」改め、「天照大御神」は『遙か4』の主人公である中つ国の二ノ姫、「葦原千尋」のことを指すのではないか、という推測である。
 先に示した台詞は、アシュヴィンルートで葦原千尋が部屋に閉じこもった際、アシュヴィンが扉越しに語りかけた台詞であるが、天照大御神(比売神)が岩戸に閉じこもったのは建速須佐之男命 (常世の王)が原因である。加えて言えば、八岐大蛇を退治したのは建速須佐之男命である。このストーリー展開から、葦原千尋とアシュヴィンは、天照大御神と建速須佐之男命を作中で体現していると言える。
 加えて言えば、天照大御神と建速須佐之男命の誓約の際に生じた子は「五男三女神」であり、丁度「八神」である。補足すれば、男神は建速須佐之男命が口から生んだ子、女神はアマテラスが口から生んだ子とされる。
 八犬伝にも犬塚信乃と犬阪毛野を女性に見立てた「六男二女」という構成があるが、これは八大童子の構成(童子六人尼二人)から来ていると、高田衛氏は考察している。
 『遙か4』は数多の民族や神々が存在する古代を舞台に作られた、龍神の神子や八葉の物語の起源とされる作品である。遙かシリーズを複数プレイしたことのある神子ならお気付きかもしれないが、この遙か4のみ、今までのシリーズには必ず登場していた天地協力技の「明王呪」が登場しない。その理由は、この作品が『遙か』、そして「天地協力技」の起源だからである。
かなり遠まわしな言い方ではあるが、五大明王の中心となる「不動明王」を傍線部六や天照大御神の件から「龍神の神子・葦原千尋」と見て、この不動明王に仕える「八大童子」を「遙か4の八葉」と見れば、本来は別個の尊格として存在する明王たちが、龍神の神子や八葉に協力するのも理解できる。五大明王の仲間の繋がりがあるからこその術である。
 『八犬伝』の四天王開眼で登場する四大忿怒明王は、降三世、無能勝、大威徳、馬頭であるが、「四大忿怒明王」とは「四大明王」、つまり、四方に置かれる降三世明王、軍荼利明王、威徳明王、金剛夜叉明王のことを指す。
 しかし、双方に共通するのは東と西の降三世と大威徳である。おそらく八犬伝が書かれた当時と現在の「教え」には歪みが生じているのではないかと予想する。これについてはまた別で考察することとする。


 以上が、『遙か』と『八犬伝』を仏教の繋がりから見た「八葉の名の由来」の一考察である。

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