「アンジェリーク外伝3禁域の鏡」から読み取る善悪の誤認識

「アンジェリーク外伝3禁域の鏡」は以前より繰り返し聴いていたが、ここ最近は別の視点から聴くことが多い。そして、その視点で聴く度にこのドラマCDでは守護聖の人間味や聖人たる故の傲慢さが露呈されているように思える。
守護聖とは神の様な存在と作中で何度も語られてきたが、神とは本来自分本位に生き、他者の思考を顧みない生き物なのである。その様子が正にありありと表現されているのが、このドラマCDである。
今まで私が守護聖のその様な面に気づかなかったのは、彼らが表立って悪意をぶつける対象がなかったからであろう。
外伝2では無意識的に抑え込んでいた感情が「ソリティア」という排他的な集合体となり、彼らを葛藤させるが、これは自身の内面との向き合いを描いたものであるため、露骨な差別描写は感じさせない。彼らはこの経験から自身の中の善悪を知り、聖人であるための論理観を導き出したとも言える。
しかし、それがより醜悪的な価値観を守護聖達にもたらす結果になったのではないだろうか。

外伝3では、今までになかった「悪意」や「憎しみ」をぶつけるに相応しい対象が、鏡合わせの如く自分の目の前に現れるのである。
サクリアを持つ自身を「本物」、相手を「偽物」と区別化するのは間違いではない。
しかし「偽物」なら何を言っても良いものなのだろうか。
同じ容姿を持つ相手を全否定する言い分の数々は、自身を「真」とした全く淀みのない口調で、その自信に満ちた発言内容には恐ろしささえ感じる。

さて、冒頭で述べた別の視点とは、「偽守護聖」もとい、「レヴィアス私設騎士団」から見た守護聖達のことである。
久々に小説版アンジェリーク天空の鎮魂歌『黒き翼のもとに』を読み進めると、ドラマCDでは読み取れなかった彼らの信念や正義が明確に描かれていると改めて気づく。
作中のセイランの言葉を借りれば「人格破綻者」や「社会不適合者」と言われる彼らだが、小説の中で生き生きと動く彼らは果たして本当に人格破綻者や社会不適合者に分類される「異端な存在」なのだろうか。
外伝3では守護聖に対して明確な悪意がある行動や言動ばかりで、更に言えば仲間内でも争いが絶えない集団のように見受けられるが、実はこれは「守護聖から見たレヴィアス騎士団」をキャストが演じているだけではないだろうかと私は考える。
聴く側に徹している私たちは、第三者でありながら守護聖側の視点を強制的に見せられ、公平に演じているつもりのキャスト側も「守護聖=正義」と「偽守護聖=悪」の像を勝手に作り上げ、レヴィアス騎士団そのものを悪意に染め上げているのではないだろうか。
キャストのキャラクター解釈が不十分だとは思わない。むしろ十分すぎるほどに完成された「偽守護聖」なのだが、小説から読み取れる「レヴィアス騎士団」ではないと感じるのは、「守護聖側の濁った視点」がキャスト、そして役にそのまま影響を与えているためであろう。

勧善懲悪の物語は日本人に好まれる傾向がある。日本で古くから上演されている歌舞伎では悪と正義は見た目で判断出来、演者がその外見に反する行動を取ることはまずない。
正義は悪を成敗し、悪は必ず負けるという使い古されたシナリオだが、幼児アニメや時代劇等、至るところでそのパターンが見受けられる。確かに白黒はっきりつける方が単純明快で視聴者側としても好ましく思うところである。
しかし、100%の悪というのはこの世に存在しない。
正義と対立する反対勢力というのは大抵また別の正義だからである。
誰かの立場から見れば「悪」の存在は、別の誰かから見れば「正義」になることもある。その逆もまた然り。
要するに元は個々の主張の押し付け合いが徐々に肥大化し、それぞれが「正義」と「悪」に名前を変えていっただけにすぎない。
そして我々は対立する勢力による視点を植え付けられたまま物語を読み進めることになったのだ。
これは製作者側による一種の洗脳とも言えるのではないだろうか。

ここで一番恐ろしいのは自分が「正義」と思い込んでしまうことである。
「正義」という思い込みで、人はどこまでも邪悪になれる。
自分が正しいと思い込むことでより強気な態度になってしまうのが人間という生き物である。しかし、それはとても危険なことではないだろうか。正論は正しいが正論を振りかざして人を屈することは本当に正しいことなのであろうか。

「いつかは理解をしてくれる」と、攻撃者に期待するのがそもそもの間違いであり、現実と願望を混同してはいけない。更に言えば理想や正義を掲げている人ほど注意が必要なものである。自分が「絶対正しい」と思っている“根性曲がり”につけるクスリはない。

という一文を心理学や精神医学について検索した際に見かけたが、これはレヴィアス騎士団よりも守護聖の方に当てはまる内容だと私は考える。
それを顕著にしているのが以下のランディの長台詞である。

お前たちを見てて分かったよ。
人の心がどんなに恐ろしいものなのか。
悪い方へ考えればいくらでも醜く、悲しくなれるけれど、
でもそれだけじゃないってことを俺たちは知ってる。
胸の中に真実があれば何も怖くない。
強く信じる勇気を持てば心は自由に大空を翔るんだ。
お前たちが争うのは、自信がないからだろ。
だから他のモノをかき集めて安心したいだけなんだ。
でも、それは求めているモノじゃないはずだ。
お前たちが自分だけの真実を見つけられるようにって、
今、心からオレは祈るよ。

これをジョヴァンニには「ベラベラ長く喋ってた割には内容がなかった」と一蹴する。全く持ってその通りである。
こうして文字に書き起こす作業をすると、私にはランディの長台詞が自身の愚かさを物語っているようにさえ感じ取れた。その一言一句を違えず本人に返したいくらいの傲慢な考えではないだろうか。
特に「お前たちが争うのは、自信がないからだろ。だから他のモノをかき集めて安心したいだけなんだ。でも、それは求めているモノじゃないはずだ。」という台詞は一体彼らの何を見てその発言をしているのだろうかと思わずにはいられない。
主星の侵略や女王監禁という氷山の一角を見てそう判断しているなら、とても浅はかである。
彼らの行動の一部を見ただけで全てを理解したつもりになり、原因や目的を視野に入れず自身の内で断定したこの言葉の羅列のどこに「訴え」があるというのだ。
もしや、守護聖は非常に狭い女王の箱庭とも呼べる聖地で日々を過ごしているため、自分が”多数派”と思い込む心理に支配されているのではないだろうか。

自分の意見・考え・行動が常に多数派で正常であると思い込む認知の偏りのことを心理学では「フォールスコンセンサス効果(False consensus effect)」と呼ぶ。
「フォールスコンセンサス」が生まれる原因は、大きく「正常化バイアス」と「帰属バイアス」に分けて考えることが出来る。尚、バイアス(bias)とは「認知の偏り」を意味する言葉である。
「正常化バイアス」とは、自分が少数派ではなく多数派に属していて正しいと思い込む認知バイアスを指す。「自分とみんなが同じ」と考えることで安心感・正常性を感じやすくなるのである。
ランディの台詞でいうところの「悪い方へ考えればいくらでも醜く、悲しくなれるけれど、でもそれだけじゃないってことを“俺たち”は知ってる。」という自然に”俺たち”という複数形を主語で用いてしまうところが既に思い込みなのである。
そして「帰属バイアス」とは、「自分の意見・考え・価値観」を他人に投影して帰属させる認知バイアスのことで、「自分とみんなが同じという偽の合意」を強化している。
「でも、それは求めているモノじゃないはずだ。お前たちが自分だけの真実を見つけられるようにって、今心からオレは祈るよ。」この台詞が正にそれである。
自身の周りには意思や行動を尊重し肯定してくれる仲間しかいないからこそ出た発言なのである。
自分はこう思うから相手もこう思うだろう、と同意を強制的に求めている。大きなお世話でしかない。
要するにランディの発言は自身の正義の押し付けでしかなく、相手を理解する気は微塵もないと主張しているだけなのである。
ジョヴァンニが鼻で笑ってしまう気持ちが分かる。

レヴィアス騎士団の立場で言えば“根性曲がり”は守護聖の方である。
相手が理解してくれるという望みを微塵も持たず、自身の目的のために手段を選ばないという、少々歪んだ解釈ではあるものの、キッパリ別の思考を持つ生き物同士だと割り切れている分、レヴィアス騎士団の方が幾分か大人な気がしなくもない。
そもそもレヴィアス騎士団にとっての「正義」は「レヴィアス様その人」であり、ランディの様に他者へ振りかざすものではないのだ。
彼に崇拝や心酔はするものの、他者に宗教的な勧誘や強要をすること無く、世界を「レヴィアス様」と「それ以外」ときっぱり分けてしまえるところに潔ささえ感じる。

ドロドロの正義に酔いしれている守護聖側の醜態はこれだけではない。
まず行動や言動が全てにおいて臨戦態勢なのである。
いや、これは双方に言えることだが、守護聖側の「言わなくてもいい言葉」のなんと多いことか。
ウォルターの暴走に関しても、偽物というだけで特に脈絡もなく相手を貶める発言をしたのはゼフェルの方である。
敵意や悪意をむき出しのまま、相手に対し過剰な反応を示し過ぎなのだ。
分別のつかない年少組の発言ならまだしも、それに加勢する大人がいるのも非常に残念な話である。
潜入してきたルノーに対する仕打ちも酷いものであった。
年端のいかない少年を大人が集団で取り押さえるのである。
敢え無く作戦失敗に終わったルノーからしてみれば決死の覚悟での潜入である。
この後、守護聖側と騎士団側は双方に一人ずつの人質を獲た状態で対峙するが、「ルノーを縛り上げておいて正義の味方を主張するのは一方的過ぎはしませんか。」というユージィンの言葉は真に的を射ている。
しかし守護聖側はこれを「先に悪事を働いたのは騎士団側だ」と、意趣返しの正当化。
そして「偽物」に対して「本物」という優位な立場を利用し言いたい放題な言動を繰り返す。
ユージィンから「貴方に何が分かる」と問われて「大抵のことが分かる」と即答してしまうクラヴィスに関しても全知全能の立場で物事を理解したつもりになるのは如何なものかと感じてしまう。
神という立場からの発言ならば、彼らの救済となる処置を提示しても良いと思うが、結論として「蘇るべきではなかった」という答えを導き出し煽る様は異端者への明確な拒絶である。

この物語は分かりあえるはずもない正義と正義のぶつかり合いである。
長年の聖地暮らしによって蓄積された守護聖の固定観念や価値観を覆すことは難しく、また強い意志を持って集った騎士団側の信念を曲げることは不可能なのである。
その中で対等に分かりあえると歩み寄りを試みている守護聖側の正義の押し付けは、有利な立場だからこそ出来る偽守護聖への自己満足的な慈悲や哀れみ、そして傲慢さが滲み出ていて実に滑稽である。

さて、私はどちらの肩を持つわけでも無いが、視点を変えると別の面白さを味わうことができるのがこの作品の面白いところだと気づき、つらつらと書き記している。
是非「天空の鎮魂歌」「アンジェリーク魔恋の六騎士」をプレイし、小説『黒き翼のもとに』を読み終わった後で再度「アンジェリーク外伝3禁域の鏡」に戻ってみて欲しい。
おそらく私と同様に「偽守護聖に対する違和感」を抱くはずだ。
そして気付くのである。
我々は演者や脚本によって作為的に守護聖の立場でレヴィアス騎士団を見せられていたのだと。
こうして多角的な視点で「レヴィアス私設騎士団」読み解けば、彼らの決意や信念を知れると同時に、守護聖や聖地に対する不信感や薄暗い感情、言い換えれば彼らの中に潜むソリティアの影を垣間見ることができる。
この素晴らしさや気付きを多くの人に知ってもらうためにも、私は「天空の鎮魂歌」の移植を願ってやまない。

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