モンハンと音楽に救われた日の話

とかいうタイトルをつける自称ミュージシャンを傍から見た時、きっと俺は「気持ち悪い奴だな」と思うだろう。

そんな狭量な男が綴るこれまでの25年間を、その気持ち悪いタイトルで振り返っていきたい。数年後の俺が読んだ時何を思うのだろう。


1998年のクリスマス。母の病室でGLAYのwinterAgainがテレビで何度も流されていた肌寒い日の明け方、愛知県の片田舎で生まれた俺は正義感のやたらと強い子供だった。

幼稚園時、先天的に髪の毛が生えないクラスメイトがハゲと虐められていた事に腹を立て、母にバリカンを渡して「俺のことをハゲにしてくれ」と頼んだ挙句、次の日にいじめっ子に対して「今後はハゲって言いたいなら俺に言え」って挑戦状を叩きつけるような正義感の塊だったらしい。その胆力がどこから来ていたのか、我ながら強い子供だと思う。

ただ、この頃から男の子よりも女の子と接する方が気が楽で、小学生にもなると初めて買ってもらったゲーム機「初代DS」でどうぶつの森に心血を燃やすおい森ガチ勢キッズだった。

同級生の男子がデュエルマスターズとか遊戯王に勤しむ中、それらには目もくれず女の子とどうぶつの森やニンテンドッグスを極める日々を過ごし、愛読書は幼馴染の家にあったちゃお。

きっとこれは、生まれた時から父親は亡くなっていて、家族構成は祖母/祖父/母。そしてよく家に来る伯母/従姉妹という、完全な女社会で育てられたからだと思っている。
可愛い物が大好きだったし、その影響か髪は伸ばしていた。
....プラージュでもみ上げを一直線に切られたことが本当に嫌で美容室が大嫌いになっていたのもあると思う。あの美容師は許さない。

ある日、ある程度男子として肉体が成熟した小学3年生にもなると「従姉妹や女友達と俺は、根本的に別物なのだ」と気づいた時とてつもない疎外感に襲われたことをよく覚えている。

焦って男友達との絡みを増やしていきつつ迎えた小学5年の夏。母が結婚した。

それまでも母が彼氏を作っては一緒に旅行に行くことはあれど、当時の俺は大人の男と関わることが少なかった事や、そもそも女の子と過ごすのが当たり前だったこともあって恋愛なんていうのはよく分かっていなかった。
思い返せばそれまでの彼氏のことは覚えていないし、なんか知らんけど謎のアニキがいるって感覚だったように感じる。

ただ、母のコミュニティによく連れ出されていたからこそ大人と接する機会が多くらコミュニケーション能力は高かったと思うし、沢山の人に優しくされて過ごした当時の自分は「誰とでも仲良くできる」と本気で思っていた。知らない人が相手でもすぐに打ち解けられていたことからいわば、愛嬌のある子供だったのだと思う。

初めて会うその後父となる男に出会った時に感じたことはよく覚えていないけど、今までに出会った大人の男の中で唯一「等身大の自分をそのまま受け止めてくれる大人だ」と感じた覚えはある。
初めての会食。コップをこぼしてその男にぶっかけた時、自身のことではなく真っ先に俺に対して「大丈夫か?怪我してないか?」と声をかけてくれたその男の優しさに驚いた。前の彼氏はそうではなかったし、母が結婚を決意したのもその男のそういった振る舞いがきっかけだったという。父のそういう所はいまでも尊敬しているし、俺もそうありたい。


母が結婚したことで、俺は愛知県の片田舎から福井県へ引っ越した。
エレキギターをやっていた父に影響を受けて、IbanezのギターでhideのHurry Go Roundを練習したりもしたが、長続きはしなかった。この時が俺が初めて音楽に触れた瞬間だったと思う。この時はその音楽との出会いが自分の人生において重要なファクターになるとは思わなかったが。

引っ越した先の福井県。小学校へ編入するも当たり前だが転校先の彼らは5年間の付き合いがある。
そこにぽっと出の俺が入っていくにはただでさえ難しいにもかかわらず、方言という言語の壁が立ちはだかった。
関西訛りの彼らの言っていることは理解が出来なかったし、三河訛りの俺の言葉は彼らには理解が出来なかった。
そして、担任の教師は俺に「方言を使うな」と指導をしたが、当の俺からすれば自分の喋りの何が方言なのかが分からない。

それまで明るかった俺は人との付き合い方が分からなくなり、どんどんと卑屈になっていった。
当時のことが分かりやすいエピソードとして、母に「クラスメイトの間所くんとかと遊んだらいいじゃない」と言われた時俺は
「俺とあいつらは格が違うから」と語った。家の柱に頭を打ち付けながら必死に環境のギャップに苦しんでいた。

福井のトレンドはDSなんかじゃない。愛知では誰も持っていなかったPSPでみーんなモンスターハンターポータブル2ndGに勤しんでいたから話にすらついていけない。
誰もどうぶつの森なんかやってないし、女の子は一期一会が大好きだ。

俺は家にあったPS2でモンハンドスを始めた。これでついていけると思ったものの、そもそもプラットフォームが違うのだから誰とも通信なんて出来ない。結局俺は1人だった。

そんな当時の俺がインターネットの世界に逃げ込むのは必然だったと言える。オンラインマルチでモンハンをして、インターネットの友達とWindowsメッセンジャーで話す日々。学校なんか大嫌いだと心の底から思った。

俺はリアルの人間関係を諦めた。


そんな俺に転機が訪れたのは2010年の12月。モンスターハンターポータブル3rdが発売された時母に頼んで買ってもらった。

それまでずっと疎外されていた俺だったが、共通の話題が生まれると自然とクラスメイトとの接点が生まれた。
今思えば彼らも俺のことをどう扱っていいか分からなかったのだろうと思う。
あのゲームが無ければ中学に上がっても1人だっただろう。転校から2年たとうとするのに友達がいなかった俺が卒業と別れを悲しめたのは一重にモンハンのおかげだった。


中学に上がる頃、母は俺に発達障害の可能性があるのではないかと指摘した。
結果的に言えば俺はADHDだったのだが、とにかく空気が読めないし人付き合いが苦手だったことや、転校先で馴染めなかったことの原因のひとつはこれだったのだろうと納得がいく。

カウンセリングと投薬が中学入学から同時に始まり、そして俺は改めて投げ出していた音楽と向き合うことになるのだ。

中学は部活動が必須だったが、重い喘息を持っていた俺に運動部は無理があった。
少し走るだけで発作が出るのだからどうしようもなく途方に暮れていた時、母にXのWEEKENDのPVを見せられた。

初めて見るヴィジュアル系バンド。過激な服装に身を包みながらも華麗にベースを演奏する沢田泰司の姿に目を奪われてしまう。

吹奏楽部でベースをやってみたらどうだ。ベースはモテるぞ。母は言った。

何も目標が無かった俺は二つ返事で言葉に乗せられ、名古屋のコメ兵でフェルナンデスのベースを買ってもらったことから俺の音楽キャリアが本格的にスタートしたのだ。

結果的に言えば吹奏楽部はつまらなくて辞めたし、ベースも一時は投げ出したけど当時好きだった女の子が喜ぶから演奏動画を撮って送ったりしているうちに中学生が終わった。カウンセリングと投薬の甲斐あってか誰とでも仲良くできるようなコミュ力は無かったが、少ないながらも関係の深い友達は出来たし、小学生末期の頃のような卑屈さはなりを潜めて等身大の自分というのを受け入れ始めていたと思う。

初めて彼女ができたのも中学2年の時だった。結果的に俺は浮気相手で都合よく使われていたが、その経験もあってか2人目の彼女では初めてを迎えたことである種「あぁ、こんな俺でもちゃんと恋愛って出来るんだな。愛してもらえるんだな。」と妙に安心したことを覚えている。

ただ、当時の俺に一言言うとすれば初めてのセックスが2月の寒空の下深夜2時に立体駐車場でアオカンっていうのは如何なものか。当たり前だけど家に帰ったら親に問い詰められたしブチ切れられた。ちっとは常識ってものを考えろと言いたいが、今でも常識外れな人間なのだからこの頃からアッパラパーだったのだと思う。人の本質はそう簡単には変わらないということか。

高校生になると性懲りも無くまた吹奏楽部に入った。ただ、この選択は後の人生に重要だったと思う。
高校の吹奏楽部にはバンドマンが沢山いたことで、自分以外のエレキ楽器をやっている人間に出会えたことから俺のバンドマンとしての人生をスタートすることが出来た。

初めて組んだバンドはAcid Black Cherryのコピーバンド。中学時代に出会って憧れていたバンドのコピーが出来るなんて最高だったし、同級生には誰もABC好きなんて居なかったからこそ、高校で出会えた先輩達には感謝しかない

そうしてたくさんのバンドを経ながら学外のイベントで繋がる対バンバンドマンや、ライブハウスのおじさん達と過ごす中でプロのコントラバス奏者やドラマーに師事を頂けたり、BOOWYのドラマー高橋まこと氏や、SHOW-YAのギターsungoさんとのセッションライブ等貴重な経験を沢山することが出来たと思うし、そういった場に俺を連れていってくれたスタジオの管理人さんの優しさが染みる。

そうしてバンド活動を続けていた高二の冬、ある男からバンドに誘われた。
オリジナル曲を主軸に活動する、完全な新規バンドのメンバーとして昔対バンした男からいきなりTwitterとDMが届いた。

オリジナルなんていわれても作曲なんて分からないし、音楽理論なんて何も分からない俺にはとても荷が重く感じたし、正直怖くて仕方なかった。期待を裏切るんじゃないか、所詮俺だぞ。やっていけるのか。
この頃になっても俺は卑屈さをまだ抱えていたのだと気付かされる。

送られてきたデモデータは滅茶苦茶にカッコイイロックで、一瞬でその男のファンになった。その男が書く曲はどれも俺にとって衝撃的で、例えるならLUNASEAとXとB’zを足して割ったような、俺が大好きなもの全部乗せて作った二郎系ラーメンのような曲だった。

それでも尻込みしていた俺の背中を押したのは、当時付き合っていた彼女だった。きっとやっていけるよと。ライブ絶対に見に行くから頑張って!応援してる!と。

彼女の言葉にはとても救われたし、そんな期待を持ってくれているのなら応えたい。俺がカバーじゃなくオリジナルで本気でバンド活動をしている姿を最愛の彼女に見せたい。本気でそう思って一歩踏み出した。

俺は最果テのベーシストになった。

結果的に言えば他のバンドメンバーもいい人だらけだったし、初ライブには多くの課題が残りつつも福井のバンドシーンにある種の衝撃を走らせることが出来たと思う。
そして、俺の背中を押してくれた彼女はその頃から浮気をしていたし、それに気づいて指摘したことで別れたし、ライブには来なかった。とても悲しい。すっごい悲しい。今でも覚えてるライブ直前の虚無感。ぴえん超えてぱおん超えてひいん。このネタもう古いか(笑)

.....ていうか浮気されすぎじゃね?

振り返れば付き合った人は今までに15人くらいいると思うけど、その半数近くに浮気されている気がする。きっとこれは俺に問題があるんだと思うし、俺に見る目もないんだと思う。
そして同時に、浮気される度に「所詮俺なんて」という言葉が脳裏に浮かんでいた。

閑話休題。

高三に上がって始まった最果テとしての生活。吹奏楽部は先輩が引退してから一気にレベルが落ちたし、同級生もやる気がないから早々に退部して、その後の全てをバンド活動に注いだ。

結果的に活動から2年でメンバーの進路の関係で解散はしたものの、ワンマンラストライブは箱がギュウギュウ詰めの満員になったし、念願のアルバムも発売できた。

この頃からだろうか。最果テとして活動する中で分かりやすい自分の成長や、バンドや俺自身についてくれたファンからの言葉

そういった音楽で出会った繋がりからの俺の評価や、実績が俺の心に大きく空いた自己肯定感の欠落を埋めてくれたのは。

俺が作詞した曲の歌詞にこんな言葉がある。

大きく空いた空白を
埋めて行く時間さえ今はなくて
時の流れは残酷で
いつしかの想いさえ壊して行く

時を停めさせてよ君の隣で
ただこの今を永遠に感じたいのに

The flow of time is Cruel
綺麗で汚くて
残酷な世界で知った愛しい夜
君と誓った言葉
今はもう見えず
君とならあの夜も越えれたのに

君とまだ居たいのに
隣に居たいのに
時計の針はただ進んでいく

君とまだ痛いのに
時間はそう無常に
進んで 進んで 止まらない


こうして書き出してみるとなかなかな黒歴史だと思うし、ていうかコレ直前に別れた彼女のストーリーが修羅場すぎてメンタル死にまくっていたんだけれど、その溢れんばかりの感情の爆発を曲にしろってリーダーに言われて作ったんだ。尚のこと黒歴史だな。
バンドマンと付き合うと曲にされる。あながち間違っていないし、最果テの他の曲はリーダーがずっと追いかけ続けていた女の子のことを歌っていたから、そういう意味では最果テのアルバムは激重ラブレターなのだと思う。

そしてリーダーは絶縁状態のその女の子にラストライブのチケットとアルバムをアポなしで渡しにいったし、その子はライブに来てくれなかった。激重ラブレターなのだから当然っちゃ当然かもしれない。可哀想に。女の子が。


ただ、この歌詞に当時の俺の葛藤や、自己肯定感の希薄さを感じずにはいられない。
そういった「大きく空いた空白」を埋めてくれたのは最果テや俺のファンだったし、最果テのメンバーや、しのぎを削りあっていた周りのライバルバンドマンだった。

当時その空白を恋愛で埋めることは出来なかったけれど、音楽が俺に自己肯定感を与えてくれたし、その界隈で生きる中で自ずと人と接していく上での自分なりの立ち回りというのを覚えられたと思う。

どこの誰とも知らないやつが書いたハウツーなんかでもなんでもなく、自分自身でトライアンドエラーをし続けて得られた「俺だけの俺のためだけの俺専用の人生の歩み方」というスキルはその後の人生においても大きな力となってくれた。

そういう意味で言えば俺は音楽のおかげでこの暗く苦しい現代というフィールドで、自分の足だけで立ち上がる歩いていくだけのパワーと気力を貰えたのだと言える。

長くなったが、現時点で6000に届こうとしている。今回は最果テ解散までで書きとどめよう。疲れた。

この後に1度音楽を辞めることになり、再度自己肯定感が死ぬ時が来るのだけれど、それはまたそのうち。もう疲れたマジで。


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