教えて先輩!酒とともに語る昭和と平成の阿佐ヶ谷住宅

2013年6月にリリースした電子書籍『給水塔と赤い屋根〜 阿佐ヶ谷住宅のおはなし』から、櫛山英信氏のインタビューを再掲します。

インタビューの最後でも触れられている櫛山氏が書き続けていた原稿は、昨日2015年3月31日に電子書籍『阿佐ヶ谷住宅物語』してリリースされたのでした。

 櫛山英信氏インタビュー (『給水塔と赤い屋根』より)

2013年5月頃 杉並区某所にて

「僕はね、そもそも家ってそんなに好きじゃないんだって(笑)!」

建設から半世紀以上、住民たちの暮らしを包み込んできた阿佐ヶ谷住宅。

でも僕たちはそのうちの僅かな阿佐ヶ谷住宅の表情しか見ていない。昭和から平成にかけて阿佐ヶ谷住宅はどう変化してきたんだろう。そして暮らしていた人たちはそこでどんな物語を紡いできたんだろう。「阿佐ヶ谷住宅をもっと知りたい──」この場所を好きになればなるほど、そんな思いが湧き起こってきた。

ここに一人の男性がいる。櫛山英信さん68歳。完成当初から阿佐ヶ谷住宅で暮らしてきた櫛山さんはいわば僕たちの大先輩だ。さらに櫛山さんは現在、ご自身の半生を阿佐ヶ谷住宅でのエピソードとともに綴った自伝を執筆中。特別に見せていただいた原稿は抱腹絶倒の青春エピソードや知られざる阿佐ヶ谷住宅の側面、そして住民たちの暮らしぶりについての描写で溢れていた。どうしても櫛山さんの生の声を聞きたくなった僕たちは、氏が大好きだという焼き鳥屋にお誘いし、酒を酌み交わしながら阿佐ヶ谷住宅の話を聞くことに。果たして櫛山さんが体験した阿佐ヶ谷住宅とはどのようなものだったのか──どうぞみなさんもご一緒に(出来ればビールでも片手に)しばしのタイムトリップにお付き合いください。

語ってくれた人:櫛山英信さん
昭和二十年生まれ
阿佐ヶ谷住宅に昭和三十三年両親とともに入居。以降、転勤時をのぞいて阿佐ヶ谷住宅に住み続けた。現在は波瀾万丈の半生と阿佐ヶ谷住宅のドキュメンタリーを綴った自伝を執筆中。好きな飲み物は焼酎お湯割り。

聞き手:木村健世
昭和四十四年生まれ
まちを舞台にした現代美術プロジェクトを手がけるアーティスト。二〇〇六年に阿佐ヶ谷住宅に入居した若輩者。好きな飲み物は塩を振りかけた梅酒ロック。

小嶋智
昭和四十五年生まれ
二〇一一年にアサガヤデンショを勢いではじめたソフトウェアエンジニア。杉並区在住歴・阿佐ヶ谷住宅ファン歴いずれも7年の若輩者。好きな飲み物はビール。

阿佐ヶ谷住宅から引越してみて

僕は意外と今の家も気に入ってる

─── 今日は阿佐ヶ谷住宅について大先輩にお聞きする、という企画でして。インタビュー兼飲み会みたいな(笑)。ぜひ、色々とお聞かせください。えっと何飲まれますか?

じゃあビールにしようかな。

─── じゃあ、ジョッキ3つで。えっと今はもうすでに別の家にお住まいなんですよね?

うん、僕はさ、(二〇一三年)二月二七日に阿佐ヶ谷住宅から引越したじゃない?で、うちのカミさんなんかはさ、あそこの緑やなんかがいっぱいある環境が好きでさ、今のところに引越しちゃったら、もうそれが無いってことで、毎日ぼやいてる。全然、今の家がほっと出来ないって。僕はまあ、どこに行ってもかわらず過ごせるんだけどさ(笑)。で、外の環境以外にも、あそこ阿佐ヶ谷住宅は増築していて65㎡くらい面積があったわけ。で、引越した新しい部屋は37㎡なんだよ。

─── んー、それは住環境としては随分違いますよね。

そう、それって決定的なんだよ。最初引越し先として45㎡以上のところを探してたんだけど、なかなか見つからなくて。前住んでたところと30㎡差があるって大変なことじゃない?まあ、だけど僕は家具や荷物なんか、意外と狭いなりにうまく収まったなと楽観的に思ってて(笑)でもカミさんはやっぱり「そんなことないわよ」って。僕は基本外にいるのが好きで、こうやって焼き鳥屋とかさ、喫茶店で時間を過ごすんだけど、カミさんは専業主婦だから、家にいる時間も長い。もう、しょっちゅう色んな所に行っては収納の道具なんか買ってきて、家の中を整理してる。下手したら、このまま3年間そういう生活が続くのかもしれない(3年後に阿佐ヶ谷住宅は新しく立て替わり、櫛山さん一家はそこに戻る予定)。

─── 住環境が一変すると、男女でもいろいろ違いが出るということでしょうか。まぁ今日はこうして色気ゼロの「男子会」をしている訳ですが、例えばうち(木村)の嫁なんかと、櫛山さんの奥さんとで集まって女子会でもやるのがいいかもしれないですね。阿佐ヶ谷住宅ゆかりの女性が集まって好き勝手におしゃべりするっていう。

そうね、うちの奥さんは酒席が嫌いだから、あそこに住んでた女性が集まってお茶する、なんていいかもしれないね。ま、とにかく僕はそんなに気にしてないんだけど、カミさんからすると、今の部屋を収めるのが大変だと。でも僕なんかは今の部屋、気に入ってるんだよ、実は。阿佐ヶ谷住宅の時はさ、一階に自分のスペースがあったんだけど、あそこは明確に部屋が区切られてないじゃない。でも、今住んでるところは、小さくてもちゃんと仕切られた自分のための個室があるわけ(笑)。

─── なるほど。うち(木村)も一階はリビングとダイニングとキッチンがありましたけど、その境界は明確に区切られていなかったです。

うちも一階の僕のスペースはダイニングとつながってて、独立してなかった。でも今は、五畳半だけど個室があるんだ。

─── プライバシーが保たれているわけですね。

だから今住んでるところは奥さんよりも僕の方が気に入っているんだ。まあ…だけど、凄いですよ、今の部屋は。玄関入ったらすぐ食べるところと、お勝手がある。それでね、前に阿佐ヶ谷住宅で使ってた大きなテーブルがあって、僕が40歳の時に買ったものなの。だいたい80歳まで使うとして、40年使うだろうからちょっといいもの買おうって贅沢して。荻窪の大塚家具でね。だけど、そのテーブルは今の家には入らないわけ。そのさらに昔使っていた小さなテーブルがあるんだけど、それもダメ。で結局最初の3週間は、段ボール箱の上に板敷いて、それで飯食ったりしてたんだよ。で、そのままじゃまずいって言うんで西友に行って今の部屋に納まる大きさの新しいテーブルを買ってさ。でも、今の家具って安いんだな。タイで作ってるみたいなんだけど。まっ白でキレイで、カミさんも娘も気に入ってるんだけど、今度はまっ白過ぎて眼が疲れるっていうかさ、飛蚊症みたいになるわけよ。それでテーブルクロスみたいなのを敷いて使ってるよ。でまあ、今の自宅は古い物件なんだけど、数年前にリフォームしててキレイなんだ。ずっと前に木村さんの奥さんが言ってたけど、なんだっけ、あのトイレの便器のふたが自動で開くやつ。

─── ええ、うち(木村)の奥さんが言ってました。なんであんなものが必要なんだとか(笑)。それに、トイレに入ったとたん、いきなり便器のふたが開くからビックリするって。

そうそう、あの自動便器がついてるんだよ。でもさ、うちでもさすがにあれは意味ないから電源切ってるけどね。まあ、あんまり必要のないものなんだけど、それくらい色々便利にリフォームされててね。トイレだけでなくって風呂も。そういうところは驚くくらい便利になっているんだけど、とにかく狭くてみんなよくぶつかるし、やっぱり緑がない。潤いがない。特にカミさんがそう言ってるんだけどね。僕はこの通り、いつも表にいてさ、阿佐ヶ谷住宅にいた頃とそんなに変わってないわけ。だからまあ、それほど新しい環境に不服ではないんだけど、常に家にいるカミさんは環境が変わったことで、ちょっと辛そうだよね。

櫛山家のリフォームを担った面々

浪人生のキクチ、ヒッピーのフクちゃん

─── そもそも櫛山さんはいつ頃から阿佐ヶ谷住宅に…。

阿佐ヶ谷住宅ってさ、建ったのが昭和三十三年じゃない。僕はその時代からあそこにいたんだけどさ。で、昭和三十三年ってのはすごい時代ですよ。戦争に負けてからからたったの十三年ですよ。だってさ、今二〇一三年だよ?そこから十三引いたら二〇〇〇年でしょ?

─── 二〇一三年から見ても大差ないですよね、二〇〇〇年なんて。つい昨日のことのようで。

そう、終戦からたったの十三年後に阿佐ヶ谷住宅が建ったんだよ。日本は昭和三十年代までにあっというまに復興を遂げて、オールウェイズなんて言って懐かしんでるけど、別の見方をするとさ、例えばある本に書いてあるんだけど「昭和三十年代の初めはとにかく暗くて、いい時代ではなかった」と。そういう見方をしている人もいる。

─── 櫛山さんは昭和三十三年、お幾つでした?

13歳。ちょうど昭和二十年生まれだから。

─── 例えば当時の13歳の櫛山さんにとって、この街(杉並)もしくは東京全体でもいいんですけど、どんな風に見えましたか。

うん、当時、僕の目から見た東京って、もっと明るくてきらびやかなイメージっていうのがあるんだけど、当時の東京を写した写真集なんかを今見ると、まぁこんなに野蛮っていうか、さびれてたんだ、っていう。表現はアレだけど、こんなにみすぼらしかったんだ、こんなにくすんでたんだと。だけど、僕の中では、昭和三十三年から三十五年、高校に入るちょっと前だね、この時代はキラキラしていたように思う部分もあるね。僕はこう見えてもシティボーイっていうかさ。都会的なものへの憧れって、すごく強くて。ハリウッドのもの、映画とかね、あとは当時出回り始めたコカコーラ。それにGパン。要はアメリカの文化だよね。それにうちはテレビを買ったのも早かったからさ。で、毎日がテレビ漬け(笑)。何を見てたかって言うと、西部劇でしょ、あとアメリカのホームドラマ。「パパは何でも知っている」とかね。そういう豊かなビジョンを毎日見つつ、どんどん都心への憧れが強くなっていったんだよね。高校は九段にある九段高校に通ったんだけど、要するに都心の方で映画三昧したかったんだよ。飯田橋、お茶の水、神田あたり、つまり高校の近くには映画館がいっぱいあったんだよね。佳作座、ギンレイ…。

─── うわ、あの辺に映画館があったこと、全然知らなかったです。

沢山あったんだよ、当時は。でさ、僕も「いまだに」なんだけど、今朝もラピュタ阿佐ヶ谷に行って映画見てきた(笑)。高校時代はさ、映画研究会なんてのを作って。まあ、いろんな奴の溜まり場になっててね。で、そうこうしているうちに、部室が燃えちゃった!

─── !!

タバコが原因じゃないんだよ。ちょうど冬でさ、部室が寒くて部室の中でたき火してたんだ。

─── 部屋の中で、ですか!?

そう、部室の中。ちゃんと皆で足でもみ消したつもりだったんだけどな。で、授業に戻って机に突っ伏して。

─── すっかり火は消したつもりで(笑)。

なのに、しばらくしたら、消防車のサイレンがウーウー聞こえてきてさ。「なんだよ、うるせえなあ」なんて思ってその音を聞いてて。でまあ、毎日弁当は部室で食べるんで、昼になって部室に行こうとしたらさ、映画研究会の奴らが血相変えてやってきて。「燃えちゃった」って。

─── (爆笑)

なんだ、あのサイレン、部室が燃えてたのか~って(笑)。で、とにかく取り調べがあって、部員は20人いたんだけど、どんどん犯人が絞られてって、二、三日後には僕とイシバシって奴が犯人だってことになって。まあ、大らかな思い出だよね。で、そんな出来事もありつつ、単位が足りなかったりして結局落第、退学したんだよ。

─── うーむ、ものすごく大らかというか、痛快なお話ですね。自分まで高校時代にもどったような気分です。で、いろいろあって九段高校から別の高校に転校されたんですね。当時のそういったちょっとワルいお友達は、阿佐ヶ谷住宅に遊びにきたりはしなかったんですか?

うん、阿佐ヶ谷住宅にはね、友達はほとんど呼んでない。それは中学の時からずっとそうなんだけど、なんていうか…自分の中で集合住宅イコールちょっと貧乏、少なくともお金持ちではないっていうイメージがあって。それは今とはだいぶ違う価値観なのかもしれないけど、僕の中ではまあ、ちょっと恥ずかしいっていうかね。そういう思いもあって、友達はほとんど呼ばなかった。ただまあ、大学時代にまた九段の連中と付き合うようになって、その中にキクチっていうやつがいてさ。彼はもうすごいバイタリティを持った男でね、今でも仕事はバリバリやってる。とにかくやることが何でも早いやつで。そいつはね学生時代、内装のアルバイトをやってたんだな。もう見よう見まねで内装の知識と技術をなんでも覚えちゃってて。しかもうちのお袋に気に入られててさ、「おばさん、オレちょっと台所借りていい?料理作ってあげるよ!」なんって言って、ちゃちゃちゃーっとタンメンかなんかを作っちゃうの。如才ないっていうか、大人相手でも話もよくするし。お袋ともよく話し込んでたよね。まあ、ちょっと珍しいやつでさ(笑)。で、親にも気に入られてることもあって、うちの二階はキクチが相当リフォームしたんだよ。

─── 学生が阿佐ヶ谷住宅のリフォームやっちゃうんですか!

目一杯やってたね。阿佐ヶ谷住宅の僕らが住んでいたテラスハウスはTBタイプっていって二階に三畳間と六畳間があるんだよ。僕は3畳の部屋を使ってた。で、押入れがあるじゃない。その押入れの奥の壁をキクチが全部抜いてくれて、そこをもう一つの部屋みたいにしてくれたわけ。

─── なるほど、阿佐ヶ谷住宅のテラスハウスは、2階部分の北側が斜めの屋根で切り取られていて、残った部分はデッドスペースになっているんですよね。で、そのデッドスペースの手前に押入れがあるわけなんですが。

そうそう、そのデッドスペースと押入れの間にある壁をキクチが壊して、きれいに一つの部屋にしてくれた。友達が来たときなんかは、その大きくなった押入れに4人も寝られたんだ。あ、すみません、焼酎のお湯割りください!(芋か麦かを店員に聞かれて)芋ください。それでその後もキクチは3つ4つやったんだよ、そういうリフォームを。

─── はぁー、学生時代の友人が家の改築をしていくっていうのも、なかなか聞いたことのない話ですよ。

いやその後もね、僕が50歳過ぎた後も、そういうことはあった。僕は仕事の都合でしばらく長野の松本にいたんだけど、そこで友達になったヤツ、まぁなんていったらいいか、ヒッピーみたいな男がいてさ。そいつは大工仕事をよくやってて、よく飲み屋の壁に絵描いたりもしてて。看板なんかも描いてね。で、僕がまた阿佐ヶ谷住宅に戻った時、彼にリフォームしてもらったんだよ。うちに二週間くらい泊まり込んでね。

─── これまた長いですね、随分。

そう、長い。二階の三畳と六畳の区切りをきちっと作ってもらったんだ。娘二人がそれぞれの部屋を使ってて。阿佐ヶ谷住宅のテラスハウスの二階は、なんていうか大きな襖みたいなもので区切られてるじゃない?で、その上には三角形の大きなガラスがはまってて。それを全部とって、床から天井まで壁にしてもらったんだ。それと一階の押入れも襖をドアにしてもらったり。でもね…いまでもカミさんと話すんだけど、そいつフクちゃんっていうだけどさ、彼はなんて言うか、仕事自体の個性が…

─── 個性が…?

…うん、個性が強すぎるんだ(笑) 決して下手なわけではないんだけど、個性的すぎるんだよ。でもまあ、いつも愉快で面白い男でさ。長野からわざわざ来てくれていろいろ作っていってくれたよ。

─── なるほど、リフォームをご自分の作品ととらえているような。

そうだな。確かにそういう感じだった(笑) 芸術家肌で。

─── 学生のキクチさんのほうが、そつなくてプロっぽいわけですね。

そうだよ。いまだにうちで話題になる。カミさんも言ってるよ、「キクチ君はプロよね!」って。フクちゃんはもう、なんでも勝手に仕事を進めちゃうんだ(笑)。イマジネーションのままにね。うちの玄関のドア見たことあるっけ?あれもフクちゃんに作ってもらったんだよ。

─── 見たことありますよ。すごく素敵なドアだったじゃないですか。

いやあ、でも何かパーツが外れたりていうのはよくあるんだよ。それでもまあ、楽しい男で、僕が東京に戻った後でも年に二、三回は長野まで遊びに行ってフクちゃんに会ってたな。相当仲良かったよ。そういや、あいつ多摩美出てるんだよ。

─── せ、先輩じゃないですか!(木村は多摩美術大学出身)

そう、大先輩だよ!

阿佐ヶ谷住宅内の結束を強めていたのは

「オヤジの会」的な父親コミュニティだった

─── それにしてもお友達が代々櫛山さんのお宅を作ってこられたとは。阿佐ヶ谷住宅の記録本なんかには絶対出てこない興味深いエピソードばっかりなんですが、阿佐ヶ谷住宅へ引っ越してくる前はどこにいたんですか。

僕が阿佐ヶ谷住宅に移ったのが13歳の時でしょ。それまでは西武池袋線の桜台に住んでたんだ。うちのお袋は19歳で僕を産んでるの。親父はもともと職業軍人でね。軍人としてはエリートだったはずなんだけど、戦争に負けちゃって、その後は仙台でぶらぶらしてたらしいんだ。それで東京に出てきてお袋のお姉さんの夫と親父と二人で文房具の問屋を始めたんだよね、日本橋で。僕はまだ小さかったけど、その問屋の店にはよく行ったよ。よく覚えてる。職住一致の小さな場所でさ、あるのは従姉や叔父さんたちが寝るところと、倉庫と、簡単な事務所。ただ、いざそこに行ってみると、叔父さんの立場が一番高いわけ。ビックリしたんだけど、親父は「番頭さん」って呼ばれてるんだ。ええって思ったんだけど、後から聞いた話だと叔父さんの方が会社の準備資金をほとんど出したらしいんだよね。それで叔父さんと親父のポジションの差がすごくついてた。だから親父としてはその仕事は嫌だったんじゃないかな。僕が店に行くと親父はすごく機嫌が悪くなっていたし。で、阿佐ヶ谷住宅はさ、その会社の社宅扱いで買ったんだよ。

─── へぇ、そうだったんですか。叔父さんの会社の社宅。

そう。でまあ、キクチのリフォームは金がかからないけどさ、それ以外にも何度か増築したりもしてるけど、社宅扱いだったからそういう費用もそれほど負担にはならなかったんだよね。全部、会社持ちで。

─── それであの28号棟のテラスハウスを買ったんですね。ちなみに28号棟の両隣にはどんな方が住んでました?

隣は、九段高校のOBだった。東京市立一高校時代のね。で、もう一方の隣が丹波さんっていって、俳優の丹波哲郎さんのお兄さん。

─── ほぉ、そんな有名人の家族が。

丹波家っていうのはさ、薬で財を成した京都の名家だったんだ。でお隣の丹波さんもさ、やっぱり品がいいんだよ。東京で製薬のビジネスをやってて。で、昭和四十年代には久我山に立派な戸建ての家を建てて、引っ越していったな。うん、そういう話は団地内に結構あるわけ。仕事が上手くいって、久我山とか浜田山とか、そういうしかるべきところに立派な家を建てて越していくっていう話ね。だからさ、そういうのもあってお袋なんかは実は阿佐ヶ谷住宅、好きじゃないんだ。僕が中学生の頃、もう住んで二、三年の頃には「お父さん、他に引っ越しましょうよ」って言ってた。もっと小洒落たマンションなんかにね。でも何で親父があそこから出て行かなかったかっていうと、団地内に友達が沢山出来ていたから。なぜか父親たち同士のコミュニティが出来上がっていたんだよ。

─── それは面白いですね。どちらかというと現在ではお父さんというよりもお母さんが地域のコミュニティを作ってそうですけども。

もちろん、当時のお母さん方のコミュニティもあったんだけど、なぜか父親同士の団結が強かった。そしてうちの親父の場合は職場が窮屈だったわけじゃない?叔父さんとのポジションの差とかさ、それにファミリービジネスだから毎日おんなじ顔を眺め続けなければならないわけだ。そこへいくと阿佐ヶ谷住宅は、当時は勿論沢山の人が住んでいたし、色んな種類の人間がいた訳で、新鮮だったんだろうね。しょっちゅう皆で外へ飲みにも出かけてたもん。職場とは全然違う世界が阿佐ヶ谷住宅の中にあったんだろうね。だから阿佐ヶ谷住宅での親父は楽しそうだったよ。親睦会の会長とか管理組合の理事長とかもしょっちゅうやってたしね。

─── お父さんにとっては阿佐ヶ谷住宅は新しい世界だったんですね。お金を産み出す場所ではないけれど、苦労もいとわない。ビジネス上のしがらみが無いからこそ、なんですかね。

だと思うよ。とにかく大人たちはみんな仲良かった。そういった団地内の大人のコミュニティってことでいうとさ、僕が九段高校に入学した時に保証人になってくれたのが、お向かいの29号棟に住んでいたカミオカさんっていう大学の先生だったの。大人たちの中でもちょっと年長者でさ、明治生まれの親分格みたいな人で。

─── こ、怖そうですね。

そう、恐いんだ。それでさ、僕が高校落第して退学した時にさ、親父としてはその人に報告しなきゃならないわけだ。「息子がこういうことになりまして」って。

─── うわぁ。

そしたらもう、激怒しちゃって、カミオカさんが。

─── 櫛山さんにですか?あるいは、お父さんに…

それが、九段高校に対して激怒したんだ。「理由はどうあれ生徒をほっぽり出すなんて無責任じゃないか、最後まで面倒見るのが常識だ」っていうね。九段高校まで乗り込んでって怒鳴ってた。それで団地の中でも怒鳴りまくるもんだから、親父もお袋も「いや、まあその、あんまり騒がないでください」みたいな。息子が落第して、しかも転校せざるを得なかったなんて周りに知られたくないわけだから(笑)。それでも「許せん!」みたいな感じでカミオカさんの怒りは収まらないわけ。

─── ありがたいのか、ハタ迷惑なのか…。

阿佐ヶ谷住宅の中でマイク持ってスピーカーから「櫛山さんちの息子さんが落第したのは、本人が悪いんじゃない!高校に問題があるのです!」なんてやりかねない勢いで(笑)

─── それは、櫛山さんはビクビクしますよね。マトモな神経なら暮らしづらくなるでしょう。

そうだよ!本人的にはそんなこと隠したくってしょうがないわけだから。両親にしたってそう。さっきも言ったけどなにせ阿佐ヶ谷住宅の中には、強いコミュニティの結びつきがあったから、誰かが何をした、なんてすぐに広まっちゃう。そこにきて、あんなに騒がれたらね。だからとにかくその後は、僕はあそこで暮らすのは、窮屈だったよねぇ。

─── 当時、他に「窮屈だった」と感じる出来事ってありましたか?

あった。僕がまだ中学生だったころ、僕が住んでいた棟の中で一軒だけ電気冷蔵庫じゃないお宅があったんだ。いわゆる木の冷蔵庫で氷を入れて使うやつね。で、お母さん連中が噂話をするわけだよ。ひそひそと「あそこはまだ木なのよ」みたいにね。僕は子供心に「何で木じゃだめなの?」って思ってた。当時としては一般的には木の冷蔵庫なんて当たり前だったんだけど、阿佐ヶ谷住宅の中では電気製品が比較的早く普及していたんだな。だからみんな一緒じゃないとダメみたいな空気が流れていたことは確かだよね。とりわけ団地っていう場所がそういう文化を作っていたんだよ。標準化というかな。テラスハウスはさ、言い方を変えれば六軒長屋みたいなもんで、そのうち四軒に電化製品が入ると、残りの二軒は居心地が悪くなるわけだ。他と同じじゃないと恐い、みたいなね。だからそういう空気を察知した時は「窮屈だな」って感じたよ。

うちは新宿、君んちは銀座。でアイツんちは渋谷だ、なんてね。

─── 当時の大人たちのコミュニティーの事をもう少しお聞きしたいんですが、例えばお父さんが会長をされていた「親睦会」っていうのは、当時どんな親睦をしていたんですか?

当時は阿佐ヶ谷住宅の中にサークルがいっぱいあったんだ。習字のサークルとかね。僕は野球部をやってた。

─── 野球部!僕(木村)が阿佐ヶ谷住宅に入居した二〇〇六年当時は、確か親睦会はありましたけど、そういった活動をしている様子はなかったです。人の数もすごく少なかったですし。

あの頃の阿佐ヶ谷住宅は、建て替えっていうことにほとんどの人の注目が集まっていたから、みんな建て替えの話しかしなかったよな。まあ、野球サークルはさ、時々日曜日に練習して、年に二、三回試合する程度のゆるいサークルだったよ。で、親睦会費でユニフォームなんかも作ってね。

─── はぁー、当時のユニフォームって見てみたいなぁ。「ASAGAYAJUTAKU」なんて書いてあったりして。

いやぁ、どうだったかな。書いてないんじゃない?よく覚えてないな。

─── やっぱり、あの中央広場で練習する訳ですか?

そうだよ。

─── メンバーは全員阿佐ヶ谷住宅の子どもたちで。

そのとおり。だけどね、その時は9人メンバーが揃わなくてね、それで当時法政二高っていう野球の強いところがあってさ(笑)。

─── 展開が読めました(笑)。

そこのまあ補欠選手なんだけど、そいつを阿佐ヶ谷住宅のチームに入れて…。

─── ずるい!

ずるかったねぇ。だって9人揃わないんだから(笑)。まあ、それはともかく、当時の大人たちの親睦コミュニティの話しだっけ。大人たちの親睦っていうと、やっぱり酒だね。とにかく酒を飲むんだ。

─── 中央広場にあった集会所で宴会をする感じですか?

いやいや、それぞれの家で。今はさ、家で大勢で飲むなんて考えられないでしょ。

─── 確かに、そうですよね。そういう時には当時のお母さん方は大変だったんじゃないですか?

いや、もうそれが当たり前みたいなムードがあった。男が言うことは絶対みたいな時代だったからね。父ちゃん連中も威張っちゃってさ(笑)、どの家庭もそういうムードの中にいたんだよね。家に大勢人を呼んでドンチャン騒ぎの大宴会するなんて、今ではあり得ない話。親の代なんかはさ、それこそ増改築なんてそのためにやってたようなもんなんだよ。宴会がしたくてリフォームするっていうさ。

─── (笑)一体どんな風に改築されたんですか?

当時の宴会のイメージってちゃぶ台囲んで一升瓶片手にっていう感じでしょう? そうではなくって、バーみたいな感じ。カウンターとかテーブルをちゃんと置いて。

─── そこから、どんどん各家庭がパーティー仕様になっていって。

だからさ、そんな勢いでどこの家もみんなバーにしよう、みたいな話しはしてたよ、大人たちは。うちは新宿、君んちは銀座、でアイツんちは渋谷だ、なんてね(笑)。今日は浅草まで行くか、みたいな。

─── なんか、粋ですね。当時の大人たちの脳内では、阿佐ヶ谷住宅が東京の歓楽街の縮図になっていたってわけですか。

どこまで本気か分らないけど、でもそんな話が通っちゃうような空気感は親父たちの間で確かにあった。お袋たちは「まったく、いやねぇ」みたいな感じだったけど、親父たちの勢いはハタで見てて、本当にそうしちゃうんじゃないか、って思わせるものはあったよ。本当にもう何かにつけて宴会でさ。つまりね、これはこれで阿佐ヶ谷住宅が活き活きしていた時代っていうことでもある。

─── 僕(木村)が入居した二〇〇六年当時の阿佐ヶ谷住宅は、人も少なくて緑が考えられない程豊かで、それはもう素晴らしい環境だとずっと思って暮らしていたんですが、櫛山さんたちが子どもだった時代は全く別物の阿佐ヶ谷住宅がそこにあったんですね。たとえば二〇〇〇年代の阿佐ヶ谷住宅、夜はここは一体どこだろうっていうくらい静かだったんですが、昭和三十年代だと、夜な夜な各家庭で宴会が繰り広げられていた、という。そう考えると、阿佐ヶ谷住宅に限らず、ひとつの場所が見せる多面性みたいなものを強く感じます。ああ、僕は阿佐ヶ谷住宅のごくごく小さな断片しか見ていなかったんだって。

世の中にはあなたたちみたいな変わり者はいっぱいいる(笑)

文化はどんどん変わっていくんだから。

─── 例えば、ここ十年くらいに阿佐ヶ谷住宅に入居した人たちと、初めから阿佐ヶ谷住宅で暮らしていた人たち、櫛山さんや櫛山さんのお父さんたちの間では、いろんな面で差がありますよね。阿佐ヶ谷住宅に対する捉え方の差が。

そうね。新しく入ってきた人たちと、うちの親父たちの間ではもう文化が全く違うっていうかさ。うん、確実にそれはある。要するに木村さんたちみたいなニューカマーは過去への回帰っていうかさ、そういう目線で阿佐ヶ谷住宅を捉えているわけでしょう。

─── 確かにそれはあります。でもそれに加えて、現在進行形の与えられた価値観だけでは満足出来ないというか。それだけを受け取って生きて行くのが耐えられないタイプですね。ひねくれてるともいえるかもしれませんが。ところで、先ほどの木の冷蔵庫のお話でも分かるように「まわりと違うのが恐い」っていう感覚があって、それはもちろん今の世の中でも大いにあると思うんですが、二〇〇〇年代に阿佐ヶ谷住宅を選ぶ若い世代の住人なんかはその逆で「周りと違うのがむしろいい」みたいな人もいるわけですよね。古くなってしまった阿佐ヶ谷住宅をわざわざ選ぶなんていう好き者はそうそういませんよね。

僕は阿佐ヶ谷住宅がこの先新しくなった時にまたテラスハウス棟に入居するんだけど、そのことでこの前、建て替えの業者と話したんだ。彼らにしてみればテラスハウスなんて作りたくなかったと。だいたい低層のテラスハウスって効率が悪いじゃない。高層にすればその何倍も人を入居させることができるわけで。

─── 建設する側の理論だとそうなりますね。

ただまあ、色んな要望があってテラスハウスも作ることになった。でも、ふたを開けてみたら新しいテラスハウス棟は不人気だった。これまでテラスハウスの地権者だった人たちも、なるべく高層棟に入りたいってことでね。テラスハウスっていうのは2層形式だからバリアフリーにはなり得ないでしょ。そういう理由もあって、老後の事を考えたらマンション形式の方が住みやすいらしいんだよね。業者側もこの点はよく分かってて「テラスなんか売れない」って言ってくる。でもね、僕はそこで断言したの。「心配ない。絶対売れるよ。テラスハウスでも間違いなく売れるよ」って。だって、世の中には変わり者がいっぱいいるんだから!

─── アハハハ。

日本人一体何人いると思う?その中に変人、いや変人はちょっと言い方悪いけど(笑)、そういうものが好きな人はいくらでもいるって。例えば、百人いたらおそらく98人は古い阿佐ヶ谷住宅は嫌い。でも残りの二人は好き。で、その二人の中でも0・5人は木村さんたちみたいに猛烈に好きで実際住んじゃうと。

─── 相当なマイノリティー(笑)。

だけど、そういう人って、確実に買うじゃない。本当に猛烈に好きな人なら。だから新しいテラスハウスも必ず売れるって言ってるんだよ。もっと言えば、古いまんまでもリノベーションして売れば、絶対買う人いるでしょう?

─── 絶対買いましたねぇ、僕ら。まぁそれにしても先ほどのお話にあったように、櫛山さんのお母さんの世代ですらむしろ小洒落たマンションへの憧れは強くって、その価値観は今でも変わらないし。いや、むしろ大きくなっていますよね。近隣の人たちの中でも阿佐ヶ谷住宅が新しいマンションになることについて「どんなマンションができるのかしら」って楽しみにしている人も多いと聞きます。かと思えば、一方で古い住宅をリノベーションするなら買いたいと思ってしまう人も少数ながら存在するわけで。そんな中にあっても、櫛山さんは色んな価値観に対し、一貫してニュートラルなスタンスですよね。ずっとお話を伺っていてそう思いました。

いや、そんなんじゃない。さっきから言っているように、僕はそもそも家ってそんなに好きじゃないんだって(笑)。

─── そこ、うっかり忘れてました。そもそも家自体に興味ないと(笑)。

本当はこういうところで飲んでたり、喫茶店で延々と原稿書いてたりしたいタイプ。なんか家で落ち着いていられないっていうか、外にいないと落ち着かないんだよ(笑)。

─── その辺はやはり高校時代に阿佐ヶ谷住宅で居心地が悪かったっていう思いが残っているからでしょうか。軽いトラウマというか。

それはあるだろうね…うん。確実にあるよね。まあ、あとは亭主達者で留守がいい、っていうのもあるし。まあ、付かず離れずあっさりいこうよっていうのが僕のスタンスなんだな。

─── 最後に一つお聞きしたかったのが、櫛山さんが実際に阿佐ヶ谷住宅で子育てをされて、どうだったかという…

もう、いいじゃない。だってもうこんな時間だよ!眠いよ(笑)。

─── 飲み始めてもう3時間くらい経ってますもんね。すみません。

いい具合に酔ってきたしさ、もう随分話したぞ(笑)。今度さ、僕の書いている原稿あらためて読んでみてよ。

─── ずっと何年も櫛山さんが書き続けている阿佐ヶ谷住宅についてのお話のことですよね。今日話していただいたような事と再開発にまつわる事がもっと詳しく書かれていますね。例えば、櫛山さん、今度その原稿を電子書籍で出してみませんか?

電子書籍って僕よくわからないんだけど。

─── こういうパソコンとかタブレットみたいなもので読める、紙じゃない本なんです。どうですか、原稿は櫛山さんの中ではもう完成されてるんですか?

あともう少し。もうこれ以上延ばしたくないから夏までにはなんとか完成させたい。ハッパをかける人と励ましてくれる人がいないもんだから、もう何年も書いてるよ。そうだね、電子書籍でも何でもいいよ。今度、その話も含めてまた飲もうよ。

─── ハイ、是非!では、ひょっとしたらアサガヤデンショから櫛山さんの著作が発行されるかもということで、楽しみにしています。今日は有り難うございました!

あ、すみません!お湯割りもう一杯。

─── 結局、まだ飲むんじゃないですか!


貴重な時間だった──櫛山さん独特の飄々としつつも時に鋭い視点から語られる阿佐ヶ谷住宅。かなり酔いがまわった僕たちの頭の中で、阿佐ヶ谷住宅はより立体感を増し、瑞々しくその彩度を増していった。人の人生と重ね合わせて語られる場所とはこんなにも豊かなんだ。櫛山さんが語ってくれた阿佐ヶ谷住宅は少し不便だったり窮屈だったり、決していいことばかりではなかった。それでも氏の言葉が愛情に溢れているように感じられたのは、半生を通してあの場所に寄り添えたからこそなのかもしれないな、などと酔った帰り道に夜風に吹かれながら考えた。僕たちは櫛山さんと一緒にこの夜を過ごした後、さらに阿佐ヶ谷住宅に惹かれている。「もっとあの場所のことが知りたい」そう思っている。幸い櫛山さんは最後に「また飲もうよ!」と言ってくれた。先輩、是非またお願いします!若輩者の好奇心は尽きることがありませんので──

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