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百合俳句鑑賞バトル 決勝戦「戯れの遺書は螢のことばかり」(小泉八重子)

課題句(選句:西川火尖さん @nishikawaksn17)

戯れの遺書は螢のことばかり/小泉八重子
(『愛と死の夜想曲 二十世紀名句手帖―人事篇』より)

バトル参加者:
佐々木紺さん @kon_00528
マリモさん @marimouper
みやさとさん @paststranger
柳川麻衣 @asa_co

萌える! と思った鑑賞文に投票をお願いいたします。 https://twitter.com/bltanka/status/855028627452248064

A.

 明日死ぬなら、最後に言い残すことはなにか。最終的にそれは恨み言などではなく、心にある愛のことになるはずだ。
 遺書「に」でなく「は」であることから、こんなはずではなかった、というはたとした驚きが読みとれ、「ばかり」には狼狽や非難までもがある。しかし遺書にある「螢のこと」という音と夏の夜の景色は清らかだ。死の言葉と取り合わせると、死後の魂が光り遊ぶ気配さえある。
 ここで、遺書が誰のものかは書かれていないことに気付く。遺書が「戯れ」だと知っていながら内容にはっとするわたしは、親しい友人ともしもの遺書を書いて遊び、照れる友人の遺書をひらいたのだ。「きっとわたしのことが書いてあると思ったのに」、蛍のことばっかり。あの夏の蛍はきれいでしたね、ありがとう、生まれ変わったらまたあなたと蛍を。
 戯れに書く遺書は本当の愛の手紙である。彼女は趣旨のとおりに、わたしの知らない清き憧れをつづる。わたしは……。

B.

 遺書を誰が書いているのか、どのようなシチュエーションで書かれ誰に宛てられたものなのか、この句では何ひとつ明らかにされない。だが、句の立ち上げるイメージは強く鮮やかだ。遺書の一文字一文字がきらきらと明滅するような錯覚すらおぼえる。
 「螢」が「あなた」、あるいは他の季語だったらどうだろう。あなたのことばかり、では戯れの遺書なので嘘のように感じられてしまう。他の季語ではこのきらきらした感じ、今ここにあるが次の瞬間にはないかもしれない不確かさが出ない。螢という季語からは美しいものへの憧れと一瞬性が感じられる。
 本当の遺書なら、他に書きたいことがある。あなたのうつくしさや、告げたい気持ちや。でもこれは戯れなので、本気では受け取ってもらえないと思うので、ただ美しいもののことを告げる。次の瞬間にはもうないかもしれない淡さで。
 そう、私はいまはあなたを好きだが、次の瞬間には嫌いかもしれないのだ。そこには憧れと、かすかな復讐心が含まれる。

C.

 憂鬱で退屈な中「あーもう死んじゃいたい」「死んじゃう?」という軽口からのごっこ遊びで書かれた遺書を想像した。開いたら内容が「螢のことばかり」だったというのはいかにも「戯れの遺書」らしいが、意表を突かれる。
 「螢のこと」とは蒸し暑い夏の夜、水辺の闇のなか息を詰めて螢の光を見た、ふたりの特別な思い出だろうか。「螢のことばかり」という口調に、もっと書くべきことがあるんじゃない?(あのとき隣にいた私のこととか)というちょっと拗ねた感じを受けると同時に、戯れでも遺書にそればかり書くほど「螢のこと」が大切だったのか、とはっとする。求愛のために発光し、寿命の短い「螢」のイメージは儚い思慕に繋がり、共有された記憶の幻想的な景色に重なる。
 「戯れ」にくるまれていても「遺書」「螢」という語には切実な響きがある。互いに「戯れ」とはぐらかしている間柄でも、ほんとうの気持ちはふとしたときに螢火のように光るのだ。

D.

 戯れに遺書を書いてみたいと思うことがある。遊び半分、本気半分の遺書を読んで欲しいひととは、誰よりも好きなひとで、かつ、私の死後にも生きていて欲しいひとである。その遺書には、蛍のこと以外には何も書かない。私がそのひとをどんなふうに想っているのか、そんなことは別に書きたくなくて、ただ私の思うもっとも美しく、もっとも役に立たないものを書き遺してみたい。そして選ばれたものが蛍なのだと思う。
 蛍は夏の季語。水辺に群れ、夜に光り、その命は儚く、古くから死者の魂とも言われる。そのイメージは、生と死のあわいに明滅する光だ。今ここに生きている私の想いもまた消える。
 蛍のように、ただ美しいだけのものとして好きなひとの記憶に残りたいと願いながら遺書を書くことはおそろしく純粋だ。その行為の無為は、逆説的に愛の純真を証明する。この遺書の差出人も送り主も潔癖で誇り高い少女ではないだろうかと想像するのである。

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