阪神・淡路大震災 の時

私は大阪市のすぐ南の市に住んでいます。

私にとって「大震災」といえば、「東北」よりも実際に経験した「阪神」となります。

1995年1月17日(火)午前5時46分52秒に発生した大きな地震です。

当時私は大阪市浪速区にあった会社に勤めていました。
その日はなぜかわかりませんが、揺れ始める数分前に目が覚めました。
布団の中で「何時かな?」と思いながら時計を探していると、
ガタガタガタと揺れだしました。
あれ、地震?と思いながらすぐおさまるだろうとそのまま布団に入っていましたが、おさまるどころか、だんだん揺れがひどくなってきました。
それでものんきに布団に入ったまま、揺れるPC用のディスプレイを眺めながら、やばいかな?倒れるかな?なんてのんきに考えていました。
当時のディスプレイは17インチのブラウン管、かなり大きく、重く、PCスタンドも貧弱だったのでそれが心配でした。
それまで経験したことが無い揺れでしたが、家では物が落ちたり、壊れたりはありませんでした。

落ち着いてからTVを見ていると、神戸の方で大きな被害が出ているようだと情報が入ってきました。
今ではスマホとかで、TVや中継動画を見ながら通勤できますが、当時はそんなものなく、気になりながら出勤しました。
最寄り駅の鉄道は動いていたので、乗り換えの終点まで乗りましたが、地下鉄が止まっていたので、二駅分歩いて出勤しました。

会社に着くと出勤している社員は半分以下、建物や備品はすべて無事でしたが、机の引き出しはほとんど空いた状態でした。
その日は仕事にならず、出勤した社員で会社にあるTVに集まってニュースを見ていました。
今なら、携帯とか、メールで出勤してこない社員の安否確認できるのですが、当時は携帯を持っている人はほとんどいなくて、向こうから連絡してくるのを待つしかありませんでした。

TV見ているとあちこちで被害報告があがり、長田区の火災や、横倒しの阪神高速の映像・・・
尋常じゃない被害だとわかってきました。

その日は社員から徐々に連絡来て、ほとんどの社員が無事で大きな怪我もないことが分かりました。
神戸からは数名通っていたのですが、一人を除いて無事が確認できました。
その一人は長田区に住んでいたので、みんなで心配していましたが、翌日無事が確認できてほっとしました。
ただ、家が倒壊し、避難所に避難した社員も数名いました。

翌日から会社で支援チームを作り、被災された得意先や、避難所にいる社員に救援物資を届けることになりました。
届けるといっても電車は止まっている、車は走れない、とうい事で中・大型バイクを持っている社員に声がかかりました。
当時私はヤマハのセローというオフロードバイクに乗っていたので、参加しました。

会社の近くの店で、衣料品、食品を購入し、ポリタンクに水を詰め、各バイクに載せて配送しました。
バイクは私を含めて 5~6台あったと思います。

大阪市内から徐々に神戸に近づくにつれ、亀裂が入った道路、倒壊した家屋、壊れたビル等目に入って来て、改めて被害の大きさを知りました。
途中道路が塞がれていてバイクでも走れないところがあったのですが、警察の方の誘導の元、歩道を走らせていただく事が出来ました。

阪神高速の横倒しの横の道も走りました。
見上げると、ものすごく高い塀ができているような感じで凄かったです。
感覚ですが、5、6階建てのビルと同じような高さだっと思います。

そして神戸に入ると、倒壊した家屋だらけ、道には電柱が横たわり、電線が垂れ下がり、それらをよけて走らなければなりませんでした。
その時気が付いたのは、1階が駐車場でその上に居住空間がある家はすべて駐車場部分が押しつぶされ倒壊していました。

私は避難所担当でしたので、避難所となっている小学校へ衣類、食料を運びました。
避難所で元気な社員の顔をみてほっとしました。

支援に2~3回行ったと思います。

2回目の時と思いますが、避難所では、大人はやっぱり暗い顔の人が多く、胸が痛くなりましたが、
遠くから子供たちの声が聞こえてきました。
数名の子供たちが楽しそうにはしゃいでいるを見て、心がほっとしました。
子供たちが元気な内はまだ大丈夫!がんばれ! そう思って少し楽になりました。

幸い私の家や、親類、家族に被害はありませんでした。
会社の方も家が倒壊した方は数名おられましたが、ご本人やご家族が亡くならた方はおられませんでした。

しかしながら、たくさんの方が住む場所や、会社を失い、命も失い、甚大な被害が出たことには本当に心が痛みました。
自然災害ですが、なんだかやりきれない思いが残りました。

もう二度と体験はしたくないですが、貴重な体験だったと思います。

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