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東海道一里塚の謎

歩き旅応援舎代表の岡本永義です。今回は一里塚についてのお話です。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に勝利し、名実ともに天下を掌握した徳川家康は、日本の国造りに邁進することになります。その事業の1つが、街道インフラの整備です。

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こうして最初に整備された街道が東海道です。関ヶ原合戦の翌年には東海道に伝馬制が敷かれて問屋場が置かれました。この問屋場の周囲が後に宿場になっていきます。そしてその3年後の慶長9年には東海道に一里塚が築かれました。

実は伝馬制も一里塚も、徳川家康のオリジナルではありません。伝馬制は東海一の弓取りとも呼ばれた今川義元や、関東の覇者小田原の北条氏が戦国時代にすでに行っておりましたし、一里塚は織田信長や豊臣秀吉も設置していました。

こうした先人たちのインフラ整備を見た家康が、街道インフラの集大成として江戸時代初期に行ったのが、徳川幕府による伝馬制であり一里塚なのです。

この東海道は江戸日本橋と京都三条大橋の間の距離が、一般的に約126里といわれています。とすると一里塚も126基が築かれたと思いがちですが、ところがそうではないというのが今回のお話なのです。

まずはこの「126里」という距離ですが、江戸時代の書物にはっきりと「126里」と書かれたものはありません。江戸時代の後期にあたる文化3年(1806)に完成した「東海道宿村大概帳」という書物には、東海道の各宿場館の距離が記されており、その距離を加算すると約126里になるというだけの話です。

ところで一里塚にはちょっとした謎があります。ほとんどの現存する一里塚や一里塚の跡地には教育委員会などが説明板を設置しています。そこには日本橋からの里数が記されていることが多いのですが、これがところどころ数字が飛んでいるところがあるのです。

例を挙げます。箱根峠を越えるときにいくつか一里塚があるのですが、芦ノ湖畔にあった一里塚は葭原久保の一里塚と呼ばれていて、その跡地には24里目だと箱根町教育委員会の設置した説明板に書かれています。

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その次の一里塚は現存しています。箱根の西坂を下る途中にある山中新田の一里塚と呼ばれているものです。この一里塚に建てられている碑には26里目と書いてあります。

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あ・れ・?

25里目はどこへいった???

というわけで、これらの説明板と碑を見た人は疑問に思います。葭原久保と山中新田の間にあるはずの25里目の一里塚を探している人までいると聞いたことがあります。

でも探したってダメです。絶対見つかりません。なぜなら、最初からそんなものはなかったのですから。

理由は、一里塚が築かれた江戸時代初期には、日本橋から三条大橋までの東海道は120里だと認識されていたからです。

江戸時代前期である天和年間(1681~1684)に編纂されたとされている「東海道絵図」には、東海道最後(三条大橋に最も近い)の日ノ岡の一里塚はこう描かれています。

日ノ岡一里塚

はっきり「百十九里」と書いてありますね。つまり一里塚は東海道を120里として造られているのです。

細かい話をします。日本橋から見て最初の一里塚は3里目にあたる大森に築かれました。熱田宿(通称宮宿)と桑名宿の間は七里の渡しと呼ばれる航路でしたので、この間の7里分の一里塚はありません。120里目の三条大橋にも一里塚は築かれていませんから、120から10を引いた110基の一里塚が築かれたのです。

ちなみに七里の渡しの東にある一里塚は84里、西にある一里塚は92里と「東海道絵図」には描かれています。

ところが先に書いたとおり、それから約120年後に編纂された「東海道宿村大概帳」では、東海道の距離が約126里とされてしまいました。そこで現在一里塚に設置してある説明板や碑は、この126里に基づいて日本橋側から「○里目」と書かれているのです。

でもこれ、おかしいですよね。そもそも一里塚は126里を前提に造られているわけではないし、120基しかないのだから番号が足りなくなりますよね。そもそも120しかないものを126に当てはめるのは無理があります。

そんな理由で、葭原久保と山中新田それぞれの一里塚の間に、里数の齟齬が生まれてしまったのです。ちなみに造られた当初は葭原久保が24里目、山中新田が25里目でした。

葭原一里塚

山中新田一里塚

そんなわけで、東海道は京都に近くなればなるほど里数の齟齬が大きくなります。そこでこんなことまで起こります。これは浜松宿の西にある一里塚の跡です。

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説明板には「六十六里」と書いてありますが、その横に「65里目です」と誰かの書き込みがあります。

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でも残念ながら両方間違い。「東海道絵図」には「六十二里」と描いてあります。

浜松西の一里塚

ところで、「東海道宿村大概帳」の数値を合計した約126里というのは正しい値なのでしょうか? なにしろ江戸時代の測量です。伊能忠敬(1745~1818)のようにほぼ正確に距離を測定できる人物はそう多くはありません。

私は地図サイト「Mapion」の機能「キョリ測」で東海道の距離を計ったことがあります。日本橋から三条大橋まで一気に計ると誤差が大きくなるので、各宿場間の距離を調べて、それらを合計しました。すると日本橋と三条大橋の間の距離は約533kmでした。

126里は1里=3.93kmで計算すると約494km、私が計った結果と約40km、約10里分もちがいます。つまり126里という距離は、東海道の実態を正確に反映した数値ではないのです。

そのため私が当舎のイベント「京都まであるく東海道」のガイドをするときには、一里塚は造られた当初の認識である120里のうちの何里目かで、お客様にはご案内しています。

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※使用した「東海道絵図」の画像は国立国会図書館デジタルコレクションのものを使用しています。




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