吉田寮祭実行委員からの小旅行プレゼント(ヒッチレース)

Twitter ネーム Arugoです。7/7にお土産話する会もあるので、そこでちゃんと話せるようにここでまとめます。
「お土産話する会に行けないよ~」という方は、これを読んでください。ではスタート

7/1 17:41晩御飯大丈夫(晩御飯を外で食べてくるの意)とだけメッセージを親に残しバイトに向かう。

バイト先の社員さんに事情を説明して20分早めの21:40に退勤。一度帰宅して、普段は30分以上の入浴を10分以内に済ませて、荷物をまとめて京都に向かった。
服装について、服装は動きやすい上下スポーツウェアにしようかと思ったのだが、ジャージ男を同乗させる人はいないだろうと思い、清潔感のありそうな緑色の無地Tシャツに黒のトレーニングパンツにした。
荷物について、ルール変更を知らず、荷物なしが参加条件と勘違いしていた。しかし、熱中症などの危険もあるので、もし、荷物の所持を理由に参加を断られたら、その場に置いて参加しよう程度に考えて
携帯、現金3000円、保険証、学生証、折り畳み傘、塩レモン飴をショルダーバックに詰めた。
モバイルバッテリーを持っていこうと思っていたのだが、7/3から雨が降るようで濡れて壊れては困るので置いてきた。
結果的に荷物を持ってきて正解だった。用意周到な自分を褒めたい。

寮祭開始の20分くらい前の23:40に到着して、旧サークルクラッシュ同好会で面識のある方とぼちぼち話しながら受付前で待機していると、続々と人が集まり、そして目前のモニターで時刻表示がされ始めた。
物販も同時に始まって吉田寮祭オリジナルTシャツ(2000円)が売られていた。始めは買うのを渋ったが「GIVE ME A RIDE TO YOSHIDARYO!!」のプリントがヒッチハイクに有利に働くと思い購入。その場で着用。
開始15秒くらい前から皆でカウントダウンをしてクラッカーで寮祭開催を盛大に祝ったあと、スーパー委員長の挨拶で始まり、「寮祭! 貫徹!、自治寮! 防衛!、 権力! 粉砕!、闘争!勝利!」のコールで開会式が閉じられた。その後、「ヒッチレース参加者は食堂にお集まりください」とのアナウンスがあり、参加者のドライバー(実質行先)くじ引き、ヒッチレースの概要と注意事項の説明、マスクや耳栓、寮祭パンフレット5部の配布、帽子の貸し出しがされた。
その間にも「四国の山奥、帰れるか帰れないかのグレーゾーンまで連れて行きますwww」などと常軌を逸したことを言うドライバーらしき人や、ソファーで招集されるのを待っていると目の前で「今日で顔を合わすのが最後かもしれない」と水杯を交わす参加者が見られた。
私は、「本当に変な人が多いな」と思いながら持ってきた飴を噛んでいた。
寮祭が開始してから50分後、ヒッチレース2022は、開会式の騒々しさとは対照的に静かに始まった。

参加者36-37名 用意された車11台 所持金1000円 所持品 段ボール箱 携帯 飴 傘 寮祭パンフ
運転手 Nさん 同乗者 Mさん、Hさん

吉田寮を出てガソリンスタンドに直行。給油後、Nさんから「近畿地方で止まる車は無し」「一番簡単なルートでめちゃくちゃ頑張れば一日で京都に着く」と聞かされる。
01:17
ファミリーマート山科駅西店に寄って、アイスと飲み物を奢ってもらい、高速道路に向かった。給油後に聞いた内容にそれぞれが考えを巡らすようで車内は静かであった。
私は親に「晩御飯大丈夫」しか伝えられてないのが心残りでした。
ただ「落とすところは1つ」とも聞いていたので三人で行動できると少し安心もしていた。
同乗者Hさんは何か感づいていたようだが。
01:33
車屋さんから高速に入るなと言われている車(年季があるだけで実績はある)で名神高速か東海道に入った。北陸方面かなと思って、また不安を感じた。

高速道路を移動中、静まりかえった車内で体力温存のために眠ろうとしたが、今回乗った車はスポーツカーばりに車高が低い上にサスペンションが死んでいるのか、振動がほとんどそのまま伝わって足裏が火照るし寝られない。
そんな半寝半起の状態で02:40 ひとつ目の名称不明PAに到着 車から降りて背中をのばしたりして「長距離トラック運転手に拾ってもらえるといいですよね」なんて言うとHさんが「トラックの運ちゃんは就業規則で乗せてくれない」と教えてくれた。さすが京大生、物知りだ。

02:50
名称不明PAを出る。

03:48
名称不明PA2に到着
電光掲示板に流れるニュースから北陸ではなく中国方向に向かっていると知って安堵する。
Nさんも疲労がたまっているらしくここで睡眠をとることになる。Hさんと私はベンチで横になって寝て、Mさんは車の中で寝ていた。
車の中で寝れなさすぎて、柔らかい椅子
で座って寝るより固いベンチでも横になって寝る方が寝やすいこと、頬杖をつきながら寝ることの難しさを体感した。約50分の睡眠後の04:45 名称不明PA2を出る。

05:34
名称不明SA到着 ここでトイレ休憩をとってしまったことが原因で鳥取県にいることを知ってしまう。

7/2 8時頃、島根県の松江市にある七類港に着いて、言われた通り三人一緒に降ろされた。
ここからスタートなのかと思いきや七類港ターミナルビルに入り、フェリー券購入のための記入用紙を配られる。
用紙に必要事項を書き終えた後、Nさんから「好きな島選んどいて」と言われる。西ノ島、中ノ島、知夫里島の三つ
地図を見ると、西ノ島、中ノ島には町があったが、知夫里島には町ではなく村しかなかった。だから誰も選ぼうとしなかった。それは村より町の方が帰りのフェリー代を工面できると考えたからだ。少しの時間のあと、私とMさんが中ノ島を希望したので、Hさんが西ノ島を選んだ。最悪の島を回避するためだろう。中ノ島を巡る争いはじゃんけんで決まった。
結果、私が中ノ島行き、Hさんが西ノ島行き、Mさんが知夫里島行きになった。私は運がいい。

09:30 乗船
海に揺られている間、お金を集められそうな場所を検討したり、潮風に当たったりした後、私はほとんどの時間を睡眠に費やした。
11:30 知夫里島にある来居港に入港。私は、不幸なMさんに餞別として塩レモン飴三つを渡した。
来居港から別府港までの移動の間、充電残量が70%後半だったのでHさんからモバイルバッテリを借りた。1%分しか充電されなかった。
12:05 西ノ島の別府港に入港。Hさんとはここでお別れ

12:40に菱浦港に入港するまでの間、海の揺れと不安感などもろもろが心臓に乱れた拍動を強制した。不整脈だ。
そんな不整脈の中、「皆が車を探している間になんで船に揺られてんだ」とか「スタート地点にも立ててねぇし、隠岐チームってヒッチレースじゃなくてワークレースじゃねぇか」などと ぼやいていた。

菱浦港に入港。船を降りるとき、思い切って、乗組員に企画の詳細と帰りの船代がないこと伝え、「仕事ありませんか」と聞いた。返事は空しく船を降りることになった。このやり取りを観光客女にじろじろ見られたがそんなことは些事だった。島を出るアテが1つ減ったことの方が精神的にひびいた。

12:40
船を降りる。

12:43
何をしたらいいのか分からないからTwitterを更新する。
小船がそこかしこにあったので、船長らしき人物でも見つけて七類港に帰ろうと考えたが、肝心の船長らしき人物がいない。
小売店があり店の扉に正社員を募集していたので、日雇いをしてもらおうと考えたが話しかける勇気どころか店に入る勇気すらなく断念。
その後、少し歩くと郵便局を見つける。ゆうちょ銀行のATMがあったのでお金を下して、最速で島脱出をしようと考えたが、それでは面白くないから明日の09:40までにお金を用意できなかった場合の最終手段として温存した。

日陰にあるベンチで休む。お金を集めることしか考えてなかった。浅慮の末、民家を一軒一軒訪問して「仕事ありますか」と聞いて回る作戦にした。船の上では、Mさんに「観光協会に仕事を紹介してもらうのも手ですよね」なんて言っていたが、私はそんなことはしようとは考えていなかった。
また歩く、訪問する家を探して階段を登っていると上から二人組の学生男子が降りてくる。初島民だ。しかも相手から「こんにちは」と挨拶をしてくれるから、この機会を逃すわけにはいかなかった。
すかさず「こんにちは、こちらの学生さんですか」と返答。「はい」と返事をしてくれて話を聞いてくれそうな雰囲気の相手に続けて「私、京都大学の吉田寮から来ましたArugoです。いま、吉田寮の企画  ヒッチレースというものを行っておりまして(中略)帰るためのフェリー代がなく仕事を探しているのですが何か紹介してもらませんでしょうか」と学生相手に尋ねる。恥も外聞もない。学生2人は少し相談して彼らが所属する部活の監督?に頼ってみてはどうだろうかと提案してくれて電話で取り次いでくれた。その後、通話中の携帯を貸してくれて、こちらからも事情を説明するが、見事に大人の対応をされた。そのことを学生2人に伝えると今度はKさんを頼ってみてはどうだろうかとKさんは、彼らが住む隠岐島前高校 三橙寮の舎監で今、焼き肉をしているとのことだった。隠岐島前高校の場所を聞いて、寮祭パンフレットを渡し、感謝を伝えて、次の目的地に向かって歩みを進めた。

宿舎が2つあると聞いていたし、特徴も教えてもらったが、どちらが三橙寮かわからなかったので近くの学生女子に尋ねる。
「こっちです」と一軒家のような方を指差し教えてくれた。

三橙寮の周りを回っていると炭に火をつけようとしている3人組がいた。「すみません。Kさんはいらっしゃいますか」と尋ねるとちょうど尋ねた人物がKさんその人だった。事情と学生2人組からKさんを頼ってみてはと助言をいただいたことを説明する。
事の仔細を忘れてしまったが、この浮浪者を快く引き受けてくれた。その上、今からするBBQも一緒にどうか、泊まるところないんだったらここで泊まるかと打診してくれた。無論、断るわけがない。相手のご厚意を最大限に預かった。これが、島に着いてから約50分後のことである。ああ私は運がいい。人が優しい。

15:10 隠岐牛BBQ開催
隠岐牛のブランド牛としての評判を上げようとしていることを聞いた。実際美味しかったので全国的に人気になってほしいと思いながら隠岐牛さんを控えめにパクパク食べた。

その後、舎監の方からシュノーケリング道具一式をお借りしてBBQを一緒に楽しんだ高校生たちとシュノーケリングをしました。
岩場にはスナムシがわんさかいて正直なところ歩けたもんじゃなかったけど、そんなのも含めてシュノーケリングはとても楽しかった。夏開催だったからこそ体験できたと、この巡り合わせに感慨にふけった。

その日は、月1のマーケットが開かれる日だということを聞いて、シュノーケリング後、三橙寮の全面的な協力を得て、カンパダンボールとフェリー代募金箱の作成をして、素泊まりでも2万円する高級ホテルの前でそしてたくさんの島民の方々、観光客の方々の前で「京大に拉致連行された」「フェリー代を恵んでください」と普段は出さない大声を出しながら歩き回ってフェリー代を上回る恵みをいただいた。

最初は一緒に歩いていた高校生が共感性羞恥からかどんどん離れて消えていった。

ちなみに、もしお金が集まらなかったら寮生からカンパをもらうつもりだったので本当に助かった。既にない面子がマイナスに転じることなく、ないままに保てた。

集金後、寮に戻って寮生が勉強の時間だったので、舎監さんのご厚意でその間にお風呂をお借りした。そのあと、舎監さんと雑談、洗い物、寮生の皆さんに挨拶、一部の寮生と会話して、寮生、舎監の方からお菓子やウィダーインゼリー、ペン、ダンボールなどを貰った。

就寝前には、歯ブラシ、歯間ブラシを頂いて、歯を磨くことができ、枕や布団、マット、モバイルバッテリーを貸していただき最高の状態で床についた。
野宿している人がいるのを知っていたので優越感が溢れかえっていた。しかしそんな気持ちを持てるのはみんなみんな優しい三橙寮の方達のおかげだと染みた。

翌朝、昨夜に舎監さんから頂いた夜食を温めて、少しサッカーを観戦してから高校をあとにした。


隠岐に流された人達は皆、Twitterを更新していたので、帰りの船で合流できるのかと思っていたが、内1人Hさんが島に滞在すると言い出したので、Mさんと2人で本土に戻ることになった。

7/3 13:19 本土帰還
舎監のKさんもかつてはヒッチハイカーだったらしく港周りでは拾ってもらえないと教えてくださったので境港駅から米子駅の移動は電車を利用した。

雨が降ってくるのが簡単に予想されたので雨でダンボールがダメにならないように米子駅前のコンビニでゴミ袋を購入。

米子市文化ホールの職員から米子南ICまでの道のりを聞いて約30分かけて徒歩で移動。

米子南ICでダンボールを掲げているとMさんが拾われたらしいのでありがたく同乗させてもらい鳥取中部まで移動する。乗せてくれた方をPさんとする。
Pさん宅でお風呂を貸していただきジビエをご馳走することになっていたが、授業が差し迫っていること、鳥取県はたとえ中心地でも20時にもなると町から人が消え、車の通りが酷く少なくなりヒッチハイクが困難なことの2点からリタイアを念頭に最大限吉田寮に近づく方向で移動を再開した。
Pさん、Mさんは私が次の車を見つけるまで一緒にいてくれた。
鳥取駅(その地点からは約1時間30分)を目的地として設定したおかげか約20分程度で子連れの女性の方に拾っていただけた。わざわざ引き返してくれたようで本当に感謝しかない。

その女性の方には、私の次のヒッチハイクを一緒に考えていただいたり、パン2つと水2Lを買っていただいたりと色々よくしていただいた。

鳥取駅で降ろしてもらい、女性と別れたあと、切符を買おうとしたら10円だけ足りなかった。「10円足りない」と嘆いていると、隣で切符を買おうとしていた見ず知らずのしかも、こちらから何のコンタクトも取ってないおばさまに10円を恵んでもらえた。

こうしてなんとか電車に乗れて姫路に到着した、姫路からは帰路にあったドライバーさんに拾ってもらって寮に帰りつきました。

7/4 25時前 吉田寮着

総括
隠岐島を堪能したし他の参加者が数時間もかけてヒッチハイクをしているのに対して、私は50分、20分と破格の早さで拾えてもらえている。他にも出会う人達に食べ物やお金を恵んでもらったりとこんなよく分からない奴に本当によくしていただいた。私は旅費を寮とNさんに負担して貰って一泊二日の旅行をしただけでした。

追記(7/8) 結局、お土産話しをする会で発表できなかった。

追記(2023/5/29)今、振り返るとあのとき授業を優先したことを後悔している。
それに道中で出会う人たちには、寮に帰還という大義を掲げていたからこそ助けてもらえたのにそれを反故にしてしまった。
来年は四年生、今はドライバーとして参加するつもりだが、もしかしたら再挑戦するやもしれない。

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