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哲学の素人がネオ高等遊民さんの哲学入門noteを実践

はじめに

もともと哲学に興味を抱いておりましたが、入門するきっかけをつかめず今まで人生を過ごしてきました。哲学者の名前や思想を聞きかじる、読みかじるだけの私は最初にネオ高等遊民さんの存在を知ったのはブログでした。面白いブログを書いている方で、現在は哲学youtuberとしてメインに活動なさっています。

実際に行動を起こしてご自身の勉強ブログ・youtube動画制作をなさっているのは楽しさが伝わってきて、ネオ高等遊民さんの応援をしたくなりました。そんな折、ネオ高等遊民さんのnote記事に触発されて哲学を勉強してみようと思い立ちました。今回はネオ高等遊民さんの哲学note記事の初級編を実践した成果をここに書き残しておきます。すぐ下にその記事を貼っておきます。

さてここからが勉強成果です。今回の記事はジャン・ジャック・ルソーにスポットライトを当てました。

哲学者のプロフィール~ルソーの前半生~

ジャン・ジャック・ルソー(1712~1778)

哲学者、音楽家。

主著:『学問芸術論』、『人間不平等起源論』、『社会契約論』など。

1712年6月28日、スイスのジュネーブ共和国生まれ。時計職人である父のイザークと賢く美しい母のシュザーヌとの間に生まれた。ルソーは次男坊で長男はフランソワという名前。母はルソーを生んで間もなく世を去ってしまい、叔母に育てられた。

父を手本に読み書きを覚え7歳の時、小説や歴史書といった高度な読書をしている。

10歳で人生が一変する。父イザークが元軍人とのけんかが原因でジュネーブから逃亡しニヨンに移り住む。ルソーはジュネーブ近郊のボセーの牧師ランベルシエに預けられる。兄フランソワはこの年から家出して行方不明になった。

ボセーからジュネーブに帰った翌年、ルソーは13歳で時計彫刻師のアベル・デュコマンの家に5年契約で弟子入りする。

弟子入り先の家で酷使され虐待されて16歳の時、友人と遊びに出かけた先で門限を過ぎてしまい親方からの罰せられるのを恐れ逃亡を決意する。

ジュネーブを去り放浪生活をし、コンフィニョンのボンヴェール司祭の紹介で、初めてヴァラン夫人に会う。この時ルソーは15歳。ヴァラン夫人は29歳だった。

ヴァラン夫人によりルソーは手に職を付けるために神学校や音楽学校に入学させてもらったが長くは続かなかった。

ルソーは、美男子で夫人の月一回開く音楽会では女性たちの注目の的だった。音楽会に来ていた一人の夫人が私の娘の家庭教師になってくれないかと打診する。それを聞いた夫人は、ルソーを守ろうと彼と愛人関係になる。

その後ヴァラン夫人の庇護を受け、哲学・数学・ラテン語などの独学に邁進した。しかし、ヴァラン夫人との関係は、夫人に新しい愛人ができたことで冷めていった。ルソーは夫人と別れた。

ヴァラン夫人に恩返しをすべくパリでの活躍を心に誓うルソー。

パリではルソーは自身が考案した数字を用いた楽譜の表記法をパリの科学アカデミーに提出した。それでお金を得ようと考えたのだった。しかし、いくらか賛辞はあったものの、職の紹介などはなかった。

音楽の個人教師をしながら部屋に引きこもって生活する日々。カステル神父の紹介で社交界に進出するも田舎出身のルソーは社交界の中心的存在からは程遠かったという。

ルソー33歳の時、テレーズと出会う。このテレーズとは生涯を共にした。5人子供をもうけたが、どの子も孤児院に預けてしまった。経済的な理由からだ。

37歳の時、懸賞論文の募集広告を見て自分の思想を自覚し応募した。その課題は、「学問と芸術の進歩は、我々の道徳を向上させることに役立ったか」というものだった。ルソーはこの問題に否定で答えた。この論文は、大反響を呼んだ。この時の論文が『学問芸術論』だ。ここからルソーの人生は好転する。幾度か年金をもらえる機会やパトロンになってもらえるのを蹴って自活した。

感想

内容は、世界の名著とウィキペディアを読んだ私の頭の中のメモですが多少なりとも読んでいただいた方の興味や関心を引き出せれば幸いです。

ルソーの人生は波乱万丈で読者としては読みごたえがありました。ルソーの著作にもこれから挑戦したく思います。


参考文献

『世界の名著 30 ルソー 』平岡昇編集


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